瞼の非同期とインサーション

Posted on 2016/10/10

画像はαMギャラリーウェブサイトより

αMギャラリーでトランス/リアル - 非実体的美術の可能性 vol.4 相川勝・小沢裕子を見る。

ギャラリーに入ると点滅する部屋。休廊中?と最初は思った。それは違っていて、ギャラリーを出るときにスタッフから教えていただいたのだが、眼鏡に目の瞬きを感知する装置を入れていて、それと同期するように部屋全体が点滅するようになっていた。スタッフの男性に「集中できないんじゃないですか」と尋ねると「そんなことないですよ、同期しているのです」というような返事があった。確かに彼が目を閉じれば部屋は真っ暗になり、目を開けばまた明るくなる。蛍光灯だからその点滅の速度はきわめて早い。パッと点灯と消灯を繰り返す。

なんということだろう、と思った。

スタッフ自身が部屋が点滅する様子を自ら見ることができないのだとしたら、時間が切断されている。瞬きをするこの一瞬ごとにわたしと世界が断絶されているとしたら。

そして、わたしはこのスタッフの瞬きの中にいる。彼の瞬きとわたしの瞬きは異なっているから、部屋が点滅するのがよくわかる。よくわかるからこそ、わたしたちの世界はどこまでも断絶されつづけている。共有されるのはお互いが目を開いているこの瞬間だけなのだろう。対比してみたいなと思い出したのは、ヴィトー・アコンチの映像Pryings(1971)で、無理やり女性の瞼を開かせようとするものだ。瞼を開かれることを全身で拒否する女性(とわたしには見える)。世界への拒否。このような瞼と世界という比喩はルドゥーでもよく見出せるのではと思うが、それよりも。このアコンチの映像を今見ると、ヘレン・ケラーのように見えた。かつて、ヘレンは動物のように自分の欲望のままふるまうしかなかったと述懐しているけれども、その状況はおそらく言葉としての記憶ではないだろう。感情それ自体の記憶。そうであれば、アガンベンのいうインファンティアの一定型であろうか。

今思えば、その装置を試してみたかったな。その空間がエキサイティングすぎてお願いするのを忘れてしまった。

αMギャラリーでは会期ごとに作家の本棚を展示しているが、個人的にいつもじっくり見ている。小沢裕子さんの棚はおもしろかった。本もさることながら、彼女の書き込みがある。書き込み、わたしの世界の学術用語としてそれをアノテーションという。でも、小沢さんのやり方はアノテーションよりもインサーションに思えた。そっと・・・、時にはグッ・・・と自らの言葉をはめてしまう、著者の文章に自分の言葉を接木しているようなことである。書き換えるように筋道を自分のものにしてしまう。ページに書き込むだけでなく、真っ青なポストカードに書き込んでページに挟むという手法もインサーションである。本を手にすれば、ポストカードの一部がのぞいていて、それ自体がページとページの間を接木している。

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