「暉雄」と識字率の歴史

Posted on 2012/06/23

曾我蕭白《群仙図屏風》(六曲一双(各172.0×378.0cm)のうち右隻,1764年, 紙本著色, 重要文化財)

 

先日、千葉市美術館であっていた「蕭白ショック」をみていたときに思ったことがあるのだけど。蕭白は落款を「曾我蕭白暉雄筆」とか「曾我蕭白暉雄画」「曾我蕭白左近次郎暉雄筆」とすることがあるんですよね。それでこの展覧会を担当された、千葉市美術館の伊藤紫織さんに「「暉雄」をどういうふうに読まれていますか?」と尋ねたことがある。それで、伊藤さんの回答は「訓読みだと「てるお」、音読みだと「きゆう」で、わたしは音読みで読んでいます。」とのことだった。
筑波大学日本美術シソーラスデータベースだと「てるお」となっているけれども、
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/mokuji/2sgsh001.html
でも、今思えば、わたしが問題にしたかったのはどう読むのかというよりは「落款で漢字で書かれている」ということだったと思う。つまり、リテラシーの問題。江戸時代の識字率はどうだったのか?ということだ。

残念ながら江戸時代に当時にそのような調査はなされておらず、統計としてはわからないのが実情のようだ。しかし、明治にはいるとそれがなんとなく見えてくる資料がいくつかある。そのうち、国が出した『文部省年報』というのがある。これはわたしが知るかぎり、もっとも近代初期になされたオフィシャルな調査だとおもう。
このなかで、明治10年から20年にかけての各県識字率の調査がなされたことがあって、例えば滋賀県の項目をみると男の識字率が90%ぐらいを保っているのに対し、女性の識字率は明治10年は39%、そこから右肩あがりになり、明治20年には53パーセントになるという。
しかし、ここでいう識字率っていうのは何だろう?漢字が読めることなのか、平仮名が読めることなのか、漢文はどうなのか?結構いろんなパターンがある。

それに応答しうるものは『長野県近代史研究』5号に掲載されている、「明治14年の識字調」という史料。
これはある村の人たち2500人ほどを対象に細かく識字の度合いを調査したもの。数字や名前を書くことができない者、村の名前を記せるもの、帳簿をつけられるもの、手紙をかけるもの、公用文を書けるもの、布達を読めるもの、新聞を読めるものとなっている。で、20代から70代のうち、23〜57%は数字や名前を書くことができないという結果。年代が高いほど、識字率が低い(つまり、リテラシーがない)。

文字教育では、いろはを習い、漢字を覚えて、漢文を素読していくというのが一般的。
そう考えると、漢字で書かれた落款「曾我蕭白暉雄」は読めない人が相当数いると考えてよいだろう。もっとも、士族や商人、僧など識字率が高かったであろう人たちばかりがこれを目にするのであればまた別の話にはなってくるけれども、わたしたちがどう読むのか、それ以前に、識字率や目にする人たちの属性などこの絵が「目にされ、落款を読む背景」も意識しておかないといけないのだろう。

Be the first to leave a comment

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です