偶発の組成 — 地主麻衣子「欲望の音」

Art Center Ongoing「53丁目のシルバーファクトリー」にて

HAGIWARA PROJECTSにて「欲望の音」スクリーニングを見る。上映が終わった時に思ったのは、ようやく地主麻衣子の作品に浸かったような気がする、言い換えると地主の作品がようやく身体に沈殿していくことが感じられるということだった。わたしが地主の作品を初めて見たのは黄金町バザール2014だと記憶している。

さて、「欲望の音」とはなんだろうか。作家本人が一部をVimeoにアップロードしているものはこちら。 Continue Reading →

最後の手段《おにわ》

(画像は有坂亜由夢さんのタンブラーより

イメージの祖父。
祖父のイメージ。

老いた男性が棺桶らしいものに包まれる。これは宇宙人『じじい -おわりのはじまり-』の映像でつかわれたものだと思う。連さんがそのときに一瞬顔をのぞかせる。《おにわ》はこのようなところから始まる。死を考えざるをえない。
祖父は自分の棺桶 — 箱のなかで庭をつくる。
わたしの祖父も自分の庭をもっていた。
女性(おいたま)が祖父と出会う。

わたしは去年の11月、祖父を亡くした。そのときは台湾に滞在する準備で慌ただしいときで東海道線で母に「台湾にいるとき、祖父にもしものことがあったらどうしようかな」と冗談めかしたことをLINEで送ったら、しばらくして東京駅かそのあたりで母からLINEで返信がある。

「いま、おじいさんがなくなったよ」

とあった。振り返って車窓から外を見上げたら、雲一つない空が広がっていた。ああ、おじいさん・・・台湾にいるから気をつかってくれたのかなと思いながら、芸大まで吉田晋之介さん《午前3時3分の底 -ひも億-》を見に行った。おかげで彼の絵と祖父の命日はつながっている。

祖父の火葬のとき、祖父の頭蓋骨が焼け崩れることなく、そのままごろんと転がっていた。

「おにわ」の「まつげ男」(とわたしは呼んでいる)の口元はけっこうな美少年を思わせる。稲妻のような絵が壁に描かれたコンビニエンストア。超巨大な木造建築物をかけあがっていくまつげ男。ふわふわした犬。滝のようにあふれるコーヒー。箱につつまれていく女。祖父が手 にする湯のみのおにわ。引き抜かれる富士山。さわると砕け散るスマートフォン。女性は箱に包まれて鍾乳洞をおりていく。口紅をつけるおいたま(セクシー・・・)。古代において鏡の力は、そのものが映ることだったとされる。キラーンとした窓。積木の彩り。あいかわらず何かが常に飛んでいるのも最後の手段らしい。

「おにわ」については、製作中のレポートで有坂さんが語っているところがある。

・・・『おにわ』は影なんです。光に対しての影、つまり裏面といいますか。民話や神話の要素に加えて実写映像も入れて、よりディープな作品にしたいと思っています。

祖父のおにわの空が一気に開かれると同時に、祖父の精神も弾けていて、希望に包まれている。わたしが亡くなるときもこうであってほしい、できることなら。

祖父は母に「ともたけは?」ときいたという。
それが最後の言葉だった。わたしは祖父の頭蓋骨をみながら、動かない口から紡がれる言葉を見ていた。

イメージの祖父。
祖父のイメージ。

クリスチャン・マークレー「電話」(1995)

わたしにとって、電話にまつわるもっとも古い思い出は、母の述懐による。母によれば、電話をしていたときに幼いわたしが「だれ?」と声を出して尋ねたらしい。この何気ない質問は、母にとって強烈な記憶になっているらしく、思わず泣いてしまったという。
もちろん、わたしはこのことを覚えていない。

ただ、電話というメディアは相手の姿がみえず、補聴器を介しても声の内容をつかむこともできないという意味で、わたしにとってはもっともメディアらしくないメディアだった。今も基本的に変わらず、どなたかと遠距離でやりとりをするときは「すみません、わたしは電話ができないんです」と断っている。

さて、クリスチャン・マークレーのこの作品はいろんな映画の電話をするシーンを切り取って、編集している。あとからやってきたものの特権でいえば、あの有名な「ザ・クロック」が見え隠れしている。

これをみていると、電話を「かける」「探す」「とる」「おろす」といった身振りがあって、単に会話をするためのメディアじゃないんだなと感じる。この編集も巧妙で、最初は「かける」身振りになっているが、終盤になると電話を終える形になっている。ラストはふっつりと切れた電話、もう届かない声のむなしさ。

電話は不思議な装置だ。福田裕大さんが最近刊行されたシャルル・クロ論でも示されているように、電話という機械は聾者の影がつきまとっているにもかかわらず、わたしはその電話そのものにふれることができない。これをつかって、コミュニケーションをしているひとたちは頭に何を思い描いているのだろうか。それはわたしの想像をはるかに超えている。

唇を読むことを依頼する恐ろしさ ― アンリ・サラ

東京国立近代美術館「映画をめぐる美術 ― マルセル・ブロータースから始める」をみる。真っ黒なカーテンが通路を覆うのは、デヴィッド・リンチ「ツイン・ピークス」を思わせる。その先には光があって、何かが動いている。ムービーや写真である。

今日はこのうち1つ、アンリ・サラ《インテルヴィスタ》をとりあげる。この作品は、サラの母が政治的な活動をしていたときのヴィデオフィルムを発見し、母にみせる。それには母へのインタビューもあるのだが、音声がなく、何を言っているのかわからない。母は自分が何を言っているのか知りたいという。そこで、サラはインタビュアーやカメラマンに会い、母のインタビューの背景にあるものを探っていく。 Continue Reading →

【お知らせ】百瀬文「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」

百瀬文「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」が上映されます。スクリーンで上映され、環境は良いと考えています。どうぞよろしくお願い致します。

平成24年度 武蔵野美術大学 造形学部卒業制作・大学院修了制作 優秀作品展

会期:2013年4月3日(水)~4月25日(木)
休館日:日曜日
時間:10:00~18:00(土曜日は17:00閉館)
入館料:無料
会場:武蔵野美術大学美術館 展示室3
アクセス:〒187-8505 東京都小平市小川町1-736
交通についてこちらを参照してください。

※当作品は、上映時間約 25 分の映像です。
※上映開始時間は、毎時間【:00】【:30】からになります。作品の構成上、途中入場が出来ませんのでご了承ください。

スチールはこちらをどうぞ。

わたしは女性を探している — 川村麻純展

昨日、資生堂ギャラリーで開催された川村麻純さんの個展へ。
わたしは川村さんの展示を二度訪問したことがある。最初はBankartで開催された芸大先端の制作展。これについては「見えない女性たち」という感想を書いた。そのときはヴィトーレ・カルパッチョや小瀬村真美さんのことを引き合いに女性たちの生死の表現が気になったし、川村さんの「声を撮りたい」という言葉に驚いたのだった。

その次は、LIXILでの個展だった。このときは、平日の昼ということもあり、あまり人がいないことをいいことに「女性の目と自分の目を合わせてみるとどうなるかな・・・」ってあのスクリーンに接近したら、その女性からずっと見つめられているというドキドキ感があった。時間を越えてわたしとその女性が見つめ合っているということになろうか。川村さんが被写体にカメラを見つめてくださいと指示していることがよくわかる撮影なんだと実感している。
ということで、今回は3回目の訪問になる。

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感想(2) ― 百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》

東京五美術大学連合卒業・修了制作展に出品されていた百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》の上映が終わりました。武蔵野美術大学のブースで、しかもテレビとヘッドホンによる上映という、作家にとっては「好ましくない環境」でした。

それゆえ、出演者としてもあまり積極的にPRはしなかったのですが、ヘッドホンがある、ないだけで全く違うように見えてしまうことであったり、あるいはヘッドホンがない人にとっては、聞こえない人が映像をみるかのような状況になっているという指摘もありました。また、ヘッドホンをつけてもなお、声を聞くことはできないという指摘もあったように周囲の反応がよく、広報させていただいたという経緯があります。

今日でその上映も終わりましたし、百瀬さんがKABEGIWAのポッドキャストで、ある程度、作品の背景について語っていると聞いていますので、ここでも少し3点、応答しておきたいと思います。ネタバレにならないように書いておきます。

(なお、まだ見ていない人は読まない方がいいでしょう)

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VHSの摩擦

河合政之さんのヴィデオ・インスタレーション。
パソコンなど準備されたイメージは使わず、VHSというアナログなものを使って、映像を映し出すという。ザァァァという音がするかもしれない、わたしのようにアンテナを使ってアナログテレビを見ていた世代として最後のほうにあたる人からみると、これはテレビのあの歪んだ像ではなくて、VHSと再生装置のあいだで人為的なスパークを起こさせたときの電子的な歪みなんだろうと思う。言葉が出てこなかったりするときがあるだろう?そんなときのなんともいえない、言葉へのしにくさのようなこと。一度河合さんのパフォーマンスをみてみようと思う。

2013年 2月 21日(木) 19時12分17秒
癸巳の年 如月 二十一日 戊午の日
戌の刻 一つ

感想 ― 百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》

平成24年度 武蔵野美術大学 卒業・修了制作展において、百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》をみた。

わたしは、この作品で「木下さん」と呼ばれる出演者だ。

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百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》について

武蔵野美術大学大学院の院生、百瀬文さんが修士制作として、わたしとの対談を映像作品として制作されました。
優秀賞にきまったとのことで、おめでとうございます。後日再上映もあるそうですが、今回はじめての上映ということでご案内致します。
撮影後の編集については、一切何も知りませんし、まだわたしはこの作品を見ていません。スクリーンに映し出された過去の自分とその内容についてどのような感情を抱くのかをいま、想像しています。

どうぞよろしくお願い致します。

以下、引用。
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皆様、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

このたび、平成24年度武蔵野美術大学卒業・修了制作展にて新作の映像作品を上映いたします。
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さわひらき Whirl(ぐるぐる)

2012年 11月 23日(金) 23時48分12秒
壬辰の年(閏年) 霜月 二十三日 戊子の日
子の刻 二つ

雪姫隠密道中記

雪姫隠密道中記のオープニング。お姫様が旅をしつつ、悪と闘うものだとおもう。スカパーの時代劇チャンネルで見られるそうだけど、見たことない。片平なぎさが主演で時代劇をしているのは初めて知った。あおい輝彦とか中村敦夫とか眉が太い。時代を感じる。
ちなみに全話の簡単な紹介はこちら

ダリのようにとろける

ダリの絵のようなペリエのCM。これは少し前のなんだけど、まさにこんな季節にはペリエが一番似合う。そう思いつつ、風呂上がりに飲むペリエのために生きているような最近。

Maha Maamoun, Domestic Tourism II

MoMAより引用。というか、“Mapping Subjectivity: Experimentation in Arab Cinema from the 1960s to Now, Part I”なんておもしろそうなことをしていたのね、MoMAって。

Domestic Tourism II

2009. Egypt. Directed by Maha Maamoun. Exclusively utilizing footage from other Egyptian films that use the pyramids as backdrop, Domestic Tourism II explores the ways in which these iconic historical monuments can be reappropriated from the “timelessness” of the tourist postcard and reinscribed into the complex political, social, and historical moment in urban narratives. In Arabic; English subtitles. 62 min.

ピザ・マシーン

ピザの生地を作り、焼いてくれるという自販機のデモ。ピザが作られる様子がわかるようになっているところは大きなポイントだよね。

これはよくデパ地下なんかであるよね。ガラス越しにスタッフが料理を作っているところをみせて、美味しそうなイメージを作り出すという。

窓の大きさをみるとピザマシーンは小さな覗き窓で、なにか秘めやかな感覚もあるというと言い過ぎだけれど。それにしても、なにかのプロセスを「見せる」のは映画が出るたびに裏話やコメンタリーがつくような制作の裏話であったり、視覚をめぐる政治性が垣間見えると思う。

それにしてもでかいな。設置場所が限られそう。

もっと気軽に、美術館へ!

テートブリテンをキュレーターのGus Casely-Hayfordさんが歩く映像。ラフなファッションで何も持たずに絵と絵のあいだを飛んでゆく。こういうふうに美術館を歩き回き、会話していくのがいい!作品と格闘するのも、戯れるのも。

パロディ化されるゲーム

どんなゲームなのか知るにはデモとプレイ動画をみるのが一番良いと思っているけれども、そのなかでたまたま見かけるものがあって、スーパーファミコンで大人気だった「ファイナルファンタジー5」(1992、スクウェア)。これはわたしも発売されてすぐ友達とすぐ買いに行き、夢中でやりこんでクリアしたものだった。 Continue Reading →

自己の自動生成システム

カメラとコンピュータを使って一筆描きで自画像を作成するシステムの映像。このセルフ・ポートレートを試した人たちの写真もある。面白いのは、「自分を見ず」に「オートメーション」で描かれるということだろう。ゲーセンには、顔を撮ってもらったら自動的にイラストになってくる機械があったけれど、それとも違う。被写体がペンをもって紙の上におけば自動的に絵が描かれるというプロセスが入っている。

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機械仕掛けの鳥かご

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=He4HYZOGY7E#!

機械の鳥かご。まさにちゅんちゅん!じゃないの。

レンブラントのFB

@kandelion さん「てぃっつぁんのFBとかリア充の極みに違いない」というので(てぃっつあんとはティツィアーノのこと)、もし、レンブラントがFacebookをしていたら?という内容をポスト。

ゴッホやフェルメールとやりとりしている。ゴッホとレンブラントは生没年が重なっていないので本来は会っていないはずだけども、楽しい。

クリスティアーン・ホイヘンスやルーベンスとも繋がってるwwww

Jim Belsitoさんのプレイ

PAPA(Professional & Amateur Pinball Association)の大会動画、セミファイナル。ここで使用されている台はFamily Guy(1999, Stern)。とくにJim Belsitoさんのフリッパー際のプレイがいい。丁寧に、そしてスピーディに落ち着いたボールさばきをみせていて参考になる。

記憶を映像にする

Radioheadの”House of Cards”という曲。トム・ヨークがVelodyne LIDARによって捉えられた映像。身体にある細胞をできるだけ簡略化しているので、面が点のようになっている。これはなにか、ライプニッツのモナドのようにも感じられるし、モーションキャプチャーっぽくもある。

そして風景がでてきては、掻き消えてゆくところがあって、実際にあった風景を早送りすることで、わたしたちの記憶を曖昧にし、廃墟のようにしてく過程のようにもみえた。いうならば、これは記憶そのものを映像にしたようなものなのかもしれない。

レオナルド「最後の晩餐」のオートマトン

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レオナルドの「最後の晩餐」をオートマトン(自動人形)としたもの。Henry Phaliboisに帰属、1890年代ではないかというもの。これはいいね!
ちなみに動画もあり、こちらで見られる。
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カメラを使わずに風景を撮る

Velodyne LIDARというものを使っている。レーザーを照射してその反射で周囲を形成するというものでコウモリやイルカがやっている方法に近い。

マンクとファウスト

ゴシック・ロマンスの傑作。これはすごく大好きな小説なので絶対見に行く!

一方は、ゲーテ『ファウスト』。どのような映像になるのか・・・。

 

美術品を壊すジョーカー

「バットマン」(1989)を見たことがあるけれど、このシーンはすっかり忘れていた。ジョーカーらが美術品を傷つけていくシーン。よくみれば、レンブラントやドガじゃん・・・。

迷路といえば「シャイニング」のこのシーンが思い出される。

英語字幕あり。