松本竣介展をみたあと、スタッフのNさんと少し話をして、そのまま海に出た。
繰り返される波が、わたしに何かを訴えかけてくるように感じられるのはわたしの錯覚にすぎないが、しかし、すれ違うことのなかった、耳の不自由な身体がこの葉山の海で出会うということについて、不思議な感慨があった。

松本竣介の兄、彬が「弟は若し耳が不自由でなかつたら畫業につきはしなかつたかも知れません。(・・・)聴力を失つた為に其の総てを畫業一つに籠めるやうになつたのは何か運命が大きな示唆を與へてゐるやうに思ひます」と書いている(カタログ、258頁)。

まわりの人が、松本竣介のその聞こえない身体の先に運命を信じていたのか。それはたいへん心強いことばに感じられた。わたしもその聾というおのれに課された身体の先にあるものはなにか、それは目の前にある仕事を淡々と続けてゆくことのみで見えることだろう。

ボッティチェッリの内奥の本質を、「優美なナイーブさ」とか「魅惑的な憂愁」として公衆の愉しみに供するのは、現代の感傷的な甘言のなすところである。

ボッティチェッリが身につけていた気質とは、自己本位の誇示のための優雅な衣服のようなものではなく、締めつけられた覆いのようなものであり、思索する芸術家の、いまだに未熟な手段を用いて、それを開け拡げること、これがボッティチェッリの生涯にわたる仕事の自覚的な目的であった。

アビ・ヴァールブルク