■ 薦められた本 2007-12-31(Lundi) 年の瀬ですね。 やり残したことをもって実家に帰省していましたが、家族が掃除やら買い物で動き回っていると、手伝わないわけにもいかず。 今年のスケジュール帳をパラパラめくってみると、いろんなことがあったなと思う。綱渡りをするような日々だった。そういえば、最近東京都現代美術館で"Space for your future"をみた。 http://www.sfyf.jp/ 出品されていたR&Sie(n)+Dやバーバラ・フィッセルなどをみていく。フィッセルは詐欺事件を扱ったプレゼンは何か、ぼくが本当は聞こえないのに、聞こえる人のように社会の中でふるまうようなやり方を連想させる。 少し前に、ある人から薦められた本。 「自閉症だったわたしへ」 http://www.amazon.co.jp/dp/4102156119/ ぜひ読んでくださいとのことでありがたく貸していただき、今どんどん読んでいるところだ。ドナの感覚世界では、おのおのの存在が別の形をとっている。すべての感覚をなくしてしまおうと考えたことがあるドナの行動は「アルタード・ステーツ」という映画を思わせる。 http://www.amazon.co.jp/dp/B00005HC5W http://www.pcs.ne.jp/〜yu/sf/altered.html それと、シュルテスとホフマンの著作も。 http://www.amazon.com/dp/0892819790/ かれらは幻覚作用のあるキノコを研究していて、誰だったかな・・・アーティスト、アドリアナ・ヴァレジョンの作業における思想として援用されていた。 2007年の末がみえてきます。今年も読んでくださってありがとうございました。 来年もどうぞよろしくお願いします。そして、2008年が皆さんにとって良い一年になりますように。 |
■ グレッタ・グリツィバッツィ 2007-12-29(Samedi) 最近、海外のオークションで落とせなかった写真集がある。グレッタ・グリツィバッツィの写真集なんだけどね。 たぶん落とせるだろうと思っていたが甘かった。予定以上の値段で落札されたから、やはり知っている人は知っているのだろう。 レンズや曲面鏡によって歪められた空間で顔をひきのばされたような女性を撮影したものでウサギ先生の論考で知った。僕はこれを表情の問題や女性における「化粧」や「皺」について考えるうえで採用できるんじゃないかと思って入札していた。その問題というのはたとえば障害者のことで、とくにハンセン病患者の顔や藤井輝明先生の本『この顔でよかった』『運命の顔』という本のことや http://www.amazon.co.jp/dp/4478942129 ユニークフェイスという先天的な病気、後天的な病気・火傷・事故によって特性のある顔を持つようになった人たちの集まり http://www.uniqueface.org/ が気になっていたからだ。これらはたぶんひとつのラインの上に成り立っているのだと仮説みたいな直感があるのだけど、それを考えるためになんの哲学や思想が必要なのだろうかという作業で彼女の写真集をみてみたかった。つなぐ素材としては、バロック美術か、ユルギス・バルトルシャイティス「鏡」かアーヴィング・ゴフマンの"Stigma"(烙印)か。いやいや、なにかこういうのはすでにあって、なにか違うような気がする・・・。答えはみえないな。 2007年 12月 29日(土) 10時26分31秒 丁亥の年 師走 二十九日 丁酉の日 巳の刻 三つ |
■ 三徳山三佛寺 (6) 2007-12-28(Vendredi) 投入堂の門が開かれている。いよいよだな、とうとうここまできてしまったよと心でつぶやく。実際に中に入っている人だと、例えば建築家の安藤忠雄さん、大学教授の山下裕二さんがいる。 門をくぐるとき、頭に浮かんだのは、手塚治虫の漫画『七色いんこ』のラストシーンだった。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061759418/ とてもいい終わり方だとおもっているが、いんこが敵とする人が客席にいる舞台裏。万里子(モモ子)がピエロ姿のいんこに「撃たれるかもしれないわよ」と言い、いんこは「そしたら、撃ったやつをつかまえてくれ、きっとだぞ!」と残して、演技のノウハウを教えてくれた亡き友達のトミーに俺の一世一代の舞台をみてくれよ、というシーンが好きなシーンなんだけど、それを自分と重ね合わせたんだろう。 門の前で、山伏が加持をしてくれて、とても勇気付けられる。正直、仏教のパフォーマンスでこれほどエネルギーを感じたことはなかった。門から見上げると柱が上にのびていて、怖いような表情をみせている。 道らしいものはまったくなく、岩にはりつくようにして登らないといけないことは明白。ザラザラしている岩に少しだけくぼみがあって、そこに足をひっかけるようにして登って行くらしい。昨日の雨のせいで、足場が少しぬかるんでいて滑りそうな感じもある。もしものために命綱が僕の腰にとりつけられているのだが全く安心できない。前を登っている方が歩いたルートを参考に、自分の感覚で岩に手をかけていく。 足場の大きさは小さくてポテトチップス大ぐらいで、大きければ片足がそのまま入る。ただ、両足が同時に入るような足場はまったくない。自分の身体が無理な体勢にならないように、岩のあいだをまわっていく。ふっと視線を上にするとこんな感じになって、投入堂が大きくそびえている。 明治43年から大正にわたって刊行された「新撰名勝地誌」シリーズの8巻、「山陰道之部」(明治43年)にはこう書かれている。 「攀て此室に入る者は實に百中の二三に過ぎずして・・・」 投入堂には登ろうとする100人のうち、2、3人しか入れないという意味で比喩として言っているのだろうが、決して言い過ぎではなく、道なき道であった。真下からみると、投入堂から見下ろされるようでなにかこわばったような厳しいような表情をしている。 自分の足場が不安定ということは、投入堂もまた同じ条件で数本の柱で身舎を支えているがために見えてくる厳しさがある。アンバランスというか、長さの違う柱がくっきりと明確に出ているところは、懸造といっても全く別のものに分類したほうがいいのではないだろうかと思われた。 <今回スケッチを4枚出しますが、下山してすぐ描いたもので、直接その場で描いたわけではないので細かい部分は違っているはず。でも、即興性を出したくそのまま使います。> 岩場は、横に進んでから一気に上に駆け上がっていく。ほぼ90度のところを登りきったところはちょっとした坂になっていて登りやすいところがあって、その先には投入堂と愛染堂のあいだにある床(落床という)の右側を登って行くことになるが、ちょっとした崖になっている。 岩に目をやると、過去に何人か登っている跡があって、岩が凹んでいる箇所があるので、そこをたよりにあがっていく。 あがっていく途中で柱の一本が目前にあるのだが、それにふれると、ああ、やっと触れたんだなというプラグマティズムという哲学的感動があった。投入堂は視覚だけでなく、触覚もあるのかとなぜか当たり前のことを考える。木肌は修理材なのかな、そんなに風化している感じではなかったのだが、しかし投入堂という存在が非常に身体的に感じられた瞬間であることはまちがいない。崖を登りきって、命綱を外す。その瞬間、はじめて崖下がみえるのだが、崖のラインの奥には木々しかみえなかった。 身舎の後ろにまわると岩壁に囲まれたうす暗い空間になっており、明るかったところに慣れた目にはどうも見にくい。目を慣らせようとじっとしていたら板壁に何か汚れのようなものが見えた。いや汚れではなく、人の名前だった。あちこちにたくさんの人の名前が書かれていて、投入堂訪問記念として、名前をなにか鋭いもので彫っているのだ。もちろん、これはほかの寺院でもたくさんみることができよう。じつにいろんな名前がある。この痕跡をみたとき、投入堂はかつて多くの人が登ってきたのがわかるし(無断でね)、静寂な印象をもっていたイメージが崩れかける。垂木の上は新しい材料で、去年の修理で新調したものなんだろう。まだ生々しいにおいのする木材であった。 向かって右側の奥に壁がたっているようにみえるがここは引戸になっている。しかしここは鍵穴があって、米田住職がかなり使い込まれた鍵を差し込むけれどなかなか開かない。ようやくガチッと大きな音がして扉がひらかれた。 いよいよだ!住職のあとに続いてなかに入る。そこは浮遊する世界であった。翼が生え、イカロスになりかける。気持ちがたかぶり、自分の体温がすこしばかり高くなるのが自分でもわかるが冷静に観察しよう。この感覚をぼくに生じさせたトリックがある。 床である。 足をふみいれるたびに床がほんの少し下にさがるように感じられて、それがその浮遊感という、フワフワしたような感覚を作り出している。しかしそれ以上に視覚的にも透かして打たれているのが大きい。床板と床板のあいだにわずかなスキマがあって、それが崖下や下の風景をチラチラとみせている。ぼくが動くと、視点もうごいて、下の風景も動いていくために自分の身体が浮遊するような感覚になる。これはすばらしかった。建築のみならず、美学、美術・・・それらの学問領域はどれもが目ではなく全身で感じるべきものであることを改めて思い起こすようであった。 ところで、ぼくの頭をかすんだのはあの堀口捨己や大岡實がなぜこのことを書かなかったのか?ということであった。あの明晰なお二人が床の透かしに気づかなかったなんてありえない。彼らは屋根や柱のディテールの話が中心で床のことなんて少しも書いていないが、ぼくは床のディテールにまず驚いたんだ。さらにおもしろいのは、愛染堂の床には板同士をぴったりくっつけて透かしていないから、投入堂の床にはかならず修験道の思想が入っているはず・・・。そのことをなぜ二人は検討しなかったのだろう。それがひとつめの疑問として僕のなかにまず沈澱された。 もちろん・・・現代建築でも強化ガラスやパンチングで床を透かすことはある。コーリン・ロウによる現代建築における透明性について、ガラスによるそれと、もうひとつが同じプランを幾重にも重ねるということを取り上げていたが、それとも違っている。ここでの「透明性」は透けているか、透けていないかのギリギリのラインを木という素材で実現しているのがすごいと思う。ある意味、ホログラム的。青木淳や乾久美子が手がけたルイヴィトンのブティックをとりあげてみたいが、それとも違うんだよな。先生おふたりは壁で表現されているが、床でそれを示すというのはやはり、身体が接触するという意味で違うのではないか。 廊下を右にまわると、住職が法要の準備をされていた。図面を観察していたとき、扉は内開きだとわかっていたが、実際にみてみると正面からあけられないようでこれが不思議。副住職が脇の扉から入って、正面の扉をあけていたのだが、じつにおもしろい身振り。なぜ、正面から開けることができない構造になっているのかが。 これは仏教の思想が建築のかたちになって現れていることの一例なのではあるまいか。人が扉をあけるのではなくー、蔵王権現がおのずから扉をあける仕組みになっている。神秘主義の話になっちゃいそうだけど宗教学者の山折哲雄さんが夜になると、蔵王権現たちが扉を開けて飛び出す・・・ということを書いていた。 たしかにその文章に相応しいしつらいになっている。一見したところ、ただの内開きの扉なのだが、この開け方の身振りには蔵王権現にたいする気持ちがこめられているようにおもわれる。気持ちというのは、この世界、人間が中心ではないんだということだ。1000年前の人々の思想に形として触れた気がする。 正面の扉があけられたとき、蛾がいて、そとにヨロヨロと飛んでいく。そこには確かに静寂そのものがあった・・・。行者ですらも入ることが限られた世界。しかし法要がはじまるとふられる錫や声がだんだんと身舎と共鳴して、「リズミカルな静寂」というんだろうか、静寂なんだけど、リズミカルなんだよね。それは建築というにはあまりにも陳腐すぎて、むしろひとつの有機体というべきであろう。 このスケッチには「投入堂を見て死ね!」と書き込みがあるが、今の自分がみたら、「あんときのオレ、けっこう高揚しちゃってるなあ」なんて苦笑しちゃうけど、そう言っちゃってもおかしくなかった。 言うまでもなく、「ナポリを見て死ね」のパクリではあるが、日本人にはみてほしいところであるという気持ちを強くしている。 投入堂から北西側をみると、不動堂が左に。このあたりの垂木や繋虹梁は堀口と大岡の間で議論の対象になったディテール。実際にみると、梁にはその場で彫ったようには思われない。でも虫食いがないのが確かに不思議なんだよな。塗装の違いか?ここではなんともわからなかったが、虫食いがある部材との違いが際立っていて不思議にも思う。 正面からの風景はまさしく山岳信仰そのものの表現に思われた。山が幾重にも連なり、せりだしている崖がフレームのようになって、一枚のタブローをみせている。昨日、雨だったせいか水滴がひっきりなしに滴っているのもまた美しい。 僕がいつの日か、死んで灰と歹だけになったら、ここから撒いてほしい、とおもうほどの景色だった。そう思うのはきっと、この日が最初で最後だろう。 名残惜しい気持ちのまま、崖を降りていくとき、どうしても底がみえるんだけど、不意に江戸時代の記録を思い出す。山伏が転落死したという記録であり、思わず足がすくむ。よくこんな道をいったのだなと我ながら思うが、どうにか門まで帰還する。生きて帰られたよ、という気持ちしか残らない。 日本で一番危険な国宝というのはだてじゃないのだが、しかし実際に歩くときはとても注意するわけで、現代のようにフラットな床で歩いているとき、われわれは格段に注意力を落としていることにも気づき、そのほうが危険なようにも思われた。 2007年 12月 28日(金) 16時32分00秒 丁亥の年 師走 二十八日 丙申の日 申の刻 四つ |
■ おお、そのはず、そのはず。 2007-12-23(Dimanche) 更新がおそくなりました。 ここ最近は図書館で調べものに集中する。 電子技術の本やら伝記物が中心。たまたま医学者の光田健輔の伝記があった。その伝記は内田守著『光田健輔』(1971・吉川弘文館)だが、好意的に光田を取り扱っていて、すこし背筋が寒くもあったが、こういう本にはきちんと目をとおしておかないといけないと思いながら読む。 光田健輔は日本におけるライ病史と、ライ病施設建築の研究でポイントとなる人物であることはいうまでもない。ライ病者の遺体解剖のときにまわりの人が怖がってやりたがらないのを、先生と光田二人で取り組んだエピソードがあるようにライ病への情熱を持った人物だが、そのやり方については明暗両面を持っているところがあって、評価が難しい。 ということがありました。 昨日、古書展にいく。一年に5、6回ありますが、毎回出席しました、パチパチ。 今年もたくさんの本に出会えました、ありがとう。今回は『椿説弓張月』や『御伽草子』『近松浄瑠璃集』などを買う。『椿説弓張月』は平岩弓枝の訳があるんだけど、やっぱり原文も読んでおきたいと前から思っていた。あとはめぼしいものはなく。 『御伽草子』は持っている本が全巻コンプリートではなく、セレクションだったので(けっこういろいろつまっているんだ)、コンプリートに近いものがほしいと思っていた所、ちょうどいいのがあったので購入する。岩波の旧日本古典文学大系シリーズ。 古書展から離れて、買い物のために街を少し歩く。横浜駅のまわりはきれいにネオンが輝いていて、恋人同士が歩いている。ちょっと目をやると、お互いの目を5センチぐらい近づけて話し合っているカップルもいて、とても顔が輝いている。 彼ら彼女らにはハッピーエンドであってほしいけど、ぼくの大好きな文楽で『曾根崎心中』という有名な悲恋の物語は、実話をもとにして近松門左衛門が床本をかいているが、男が女に「自害するとぞ知らせける。オオ、その筈、その筈・・・いつまで生きても同じこと・・・」 と、男が女の足首をとってそっとのど笛を撫でて、自害するよ、と伝えるシーンがある。あんなに好きあえるなんて・・・と思いながら、じっとみていた。 他の物語には、恋人同士が家の都合で引き離されるんだけど、お互いのことが好きだから男が自分の首を斬り落とし、それを女のところに届けてもらうものもあったりして、もう心にグッときちゃって涙が出るなあ・・・。同時に人のぬくもりが欲しくなりつもある。 人形の死に方って、なにかひとつの美しさみたいなものがある。それまで人の手によって動いているわけで、自力で動く訳じゃないんだけど、でも人形(人物)が殺されたり、自殺したりするシーンは生死そのものが常に入れ替わっているかのようで、ぼくもまた、毎日細胞が入れ替わっているから同じ人間じゃないよね。このことは、『生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)』福岡伸一さんの本にもふられていたように思うが、人形でそれを実感するような感覚。 木下長宏先生の講義を受ける。宮崎駿さんのような感じに髭をのばしておられて、ちょいワルオヤジみたいな容貌になっていた。 古事記についての注解だった。石の音を漢字で表現するとどうなるか、という興味深いお話をされていた。きけば用例集はなく、漢和辞典で調べたそう。 NHK「プロフェッショナル」に宮崎駿が特集されたときに、コンテをかくときにかける曲は〈ワルキューレ〉だそう。もちろん、ワーグナーの楽劇《ニーベルングの指環》の第1夜〈ワルキューレ〉のことだと思うのだけど、勇ましいリズムと説明があった。 ぼくは集中する時はなにをかけるかというと、何もかけない。音楽をかけちゃうと眼球が小刻みに振動して、聴覚と視覚が連動していることを感じて、なにもみえなくなっちゃうのでなにもしない。ひたすら目の前にあるものに集中する。 2007年 12月 23日(日) 21時26分20秒 丁亥の年 師走 二十三日 辛卯の日 亥の刻 一つ |
■ ハンムラビ法典からの救済 2007-12-17(Lundi) ニコラ・フィリベールの映画が銀座テアトルシネマで上映される。 http://www.cinematopics.com/cinema/news/output.php?news_seq=6705 きこえない僕たちにとっては、"Le Pays des sourds"という作品で名前を知っている人も多いだろう。下手な直訳をすれば『聾の国』だが、この和訳『音のない世界で』という訳しかたには前から疑念を感じている。 『音のない世界で』Le Pays des sourds 新字幕・ニュープリント 1992年/99分/35ミリ・カラー/1.66/モノラル 沈黙の中で生きる多くの人々にとって、世界はどんなふうに見えているのだろう。パリのろう学校に通うろう者たちの日常を描き、数多くの映画賞に輝いた。ニコラのまなざしが、驚くほど豊かな感覚に満ちあふれた《音のない世界》を発見し、歓びとともにその世界に観客を誘う傑作ドキュメンタリー。 何度かここの日記で書いているが、きこえないイコール沈黙・音がない、という図式はどうかと思う。 ジョン・ケージがすでに言っているが、耳が機能していない身体であっても、血液や呼吸、目の動きなど身体をめぐるリズムが音を作り出している。それは聞こえない身体、主観的な書き方で申し訳ないが、眼球が動く音は僕にはしている。骨がポキポキ言う音も感じている。聞こえなくても身体内部の音に囲まれているということなのだから、この『音のない世界で』という訳を最初につけた翻訳者に対しては、きこえない人の身体性をもう少し考えてもらいたかったのだけど。公開からすでに15年以上が経過していて、聾をめぐる言説やイメージも少しずつ変わってきている。せっかく字幕を新しくしたとのことなのに、タイトルは変更されていない・・・これはいけないよ。 でも、これは別に日本だけでなく、フランスでも「沈黙」にあたる"silence"という言い方で解説されているところがある。 主観的すぎるといわれるかもしれないが、きこえないことは決して沈黙ではない。別に、ぼくは聞こえるようになりたいわけではないんだ。たとえば、 http://www.asahi.com/science/update/1211/TKY200712110365.html 「万能細胞、肝臓や胃の細胞からも 京大山中教授ら成功」というニュースだけど、ああ、とうとうやっちゃったかという感触があった。このテクノロジーはこれまで治療できなかった<病>を救うのだろうけど、目の見えない人が見えるようになる、聞こえない人が聞こえるようになる。『アルプスの少女ハイジ』のクララちゃんのように歩けるようになることだってあるかもしれない。 このような奇跡のような出来事がそのテクノロジーによってできるとしたら、どうなるんだろう。もし実現したら、ハンムラビ法典からの救済のようだ。見えない目には目を、聞こえない耳には耳を! 日本では聞こえない子供たちが通う「聾学校」の名前が「特別支援学校」に変更され、「聾」が全国各地から消えていっている。そして万能細胞をつかった治療のように障害を再生できるようになったとしたら、形すらも残らなくなってしまう。 もし僕がその治療を受けたら、きっと自分が自分でなくなってしまうに違いない。聞こえないことをとったら、果たして僕に何が残るだろうか? 何も残るまいよ。 2007年 12月 17日(月) 19時15分35秒 丁亥の年 師走 十七日 乙酉の日 戌の刻 一つ |
■ タッチ・オブ・サウンド 2007-12-15(Samedi) 昨日、法隆寺宝物館にはホテルオークラが出している店があって、東京藝大の博士課程にいる方お2人と話す。楽しかった。 聴覚文化研究会という集まりがあって、個人的に関心をよせていたのだが、知り合いがおらず接点がないとおもっていたらミクシイである方とつながったのがきっかけ。 お2人とも音楽を専攻していらっしゃるので、自然に音楽と聴覚の話がメインになった。当然ながら僕より知識や経験が豊富なのでいろいろ教えてもらう形になった。1人はフレデリック・ショパンの受容史やジェンダーについての研究をしているとのことで、もう1人は・・・しまった、伺うのを忘れてしまった。またお会いできることもあろうからそのときに伺えたら。最近の音楽研究は身体動作に関するものが増えている、ということを教えてもらう。「口琴(こうきん)」という楽器をおしえてもらった。 http://www.koukin.jp/ これは面白そうだが、ぼくに演奏できるだろうか。いずれにせよ試してみたい。 ひきあいになった人たち ◆ゲザ・シシー お会いした1人が筆談する手をみて左利きとわかったのでつい、Geza Zichyの名前が出てくる。右腕を戦争で失い、左手だけで活動したピアニストで、片腕だけで演奏する音楽家として僕が最初に知った人物。きっかけは忘れちゃったけど。 伝記は以下がある。グスタフ・マーラーやフランツ・リストの関係も明記。 http://hjem.get2net.dk/Brofeldt/Catalogue_z.htm 今は日本人で病気のため左手だけで演奏するピアニストもいる。左手だけで演奏する曲はブラームスもあるね。おもしろいのは、「左手だけ」で演奏する曲が生まれる(作曲される)背景は決まって、ある人の病だったり事故で片腕が使えないことがきっかけだったりするように思うのだが、それは近代のテクノロジーや医学と引き合いにすることは可能なのだろうか? そして、左手だけということはすなわち指が10から5になることであるが、このことはどう評価され、どう演奏されてきたか関心があるが。そんなに詳しくないのでなにもいえませんが。 ◆エリック・ドルフィー すごく好きな音は何かというと、まずこれを挙げたくなるほどではじめて聴いたときは宇宙に飛び出すようでかなりセンセーショナルなショック。彼のアルバムは全部もっている(ぼくが所有するCDで海外生産も含めてコンプリートしているのはドルフィーだけ。それほど心酔していた時期があった。) 『アウト・トゥ・ランチ』『ラストデイト』でのブレスはぼくの身体を強く揺り動かし、自分の身体と魂がちぎれそうになる。哲学の言葉でいうとライプニッツのモナドなのではないか。 1:24あたりに彼のブレスと指の動きが同時にみられるように編集しているあたりがあって、小さな画面に音があふれる。そこが結構好きだ。 あるか知らないけど、ドルフィーのポスター欲しいな。サンタさん来てくれないかな? ◆ローランド・カーク 盲目ということはあとで知った。まだインターネットがなかったときの頃になるが、同時に管楽器を吹きわけるという身振りをするということを音楽雑誌の写真で知って、わざわざアメリカまでビデオを個人輸入で注文した。家族からは「そういうのがいいの?」みたいな感じに言われたかも。楽器が奇妙な形態でギョッとする。 冒頭に出るのはもちろん、ジョン・ケージ!若いなあ。 今だとケニーGがすることで有名だが、循環呼吸の達人で、耳で呼吸をしていたと言っている。ソースは例えば以下。 http://www004.upp.so-net.ne.jp/fuetakofans/jazz/jazz1.html ◆エヴリン・グレニー 耳がきこえないパーカッショニストなんだけど、 http://www.evelyn.co.uk/live/disability_essay.htm を読むと、手話はできないらしい。彼女もYoutubeでたくさんの映像がある。聞こえない人が音楽をすることを伝えるときの一例としてグレニーさんのことを取りあげることがある。 そういえば、グレニーさんのDVDは持っていない。買ってもいいか。 他にはグレン・クールドとか。 まだ教えてもらっていないが、蛍光灯で演奏するグループがいるらしい。みてみたい。 2007年 12月 15日(土) 00時23分29秒 丁亥の年 師走 十五日 癸未の日 子の刻 三つ |
■ お宝ハンターが来ましたよ 2007-12-12(Mercredi) なにかとバタバタ。 北海道の聴覚障害申請をめぐる不正診断書問題について続報。 http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/65400.php 市内在住の五十−七十歳代の男性六人、女性二人。このうち四人は「自分たちで(病院に出向くなどして)再検査した結果、二級に該当しなくなった」残りの四人の返還理由は不明という。 もっと数が増えそうな感じがする。「残りの四人の返還理由は不明という。」というあたりは「はい、ごまかしていました」というような胡散臭さを感じるのは僕だけでしょうか。(・・・中略・・・) 同市内の聴覚障害二級の手帳交付者数は二百六十九人で、聴覚障害者全体の64・2%を占めており、全道の26・1%に比べ、突出ぶりが際立っている。 日本建築学会が出している機関誌「建築雑誌」12月号は、「みんなの建築」というテーマ。 建築探偵桜井京介のシリーズを出している作家、篠田真由美さんが磯達雄さんからインタビューされている様子が掲載されている。僕はだいぶ前に、密室殺人の歴史を大西洋やベンヤミン(ありがちだけど)にからめて書いたことがあるので、興味をもって読んだが、建築史の研究は探偵の活動に似ているのではないかという指摘は面白い。密室殺人事件はいろいろ読んだが、ディスクン・カーの『三つの棺』はベンヤミンのパサージュ論とうまくかみあうモデルで、今もおもしろく読める。 ほかのインタビューで書誌学者の林望先生が「地名を無原則に変えるということは、その土地に対する蹂躙ではないかと思います。地名を変えることに何の意味があるかというと、実際に郵便を配るためだけの都合ではないでしょうか。それは明らかにおかしいと思います。」と発言していたのも印象に残った。 その関係で知ったが、林先生は"The Meaning of English Places Names"というイギリスの地名の意味が全部書いてあるという本をイギリス旅行中に持ち歩くそう。これはいい本を教えてもらった。これのフランスバージョンももちろんある。 大物といえば、"Toponymie générale de la France"というもの。じつはまだ読んだことがない。35000の地名を解説しているらしいが、このボリュームはすごそう。 http://www.dicoland.com/fr/geographie/toponymie-generale-de-la-france-volume-1-formation-preceltiques-celtiques-et-romanes-2459 林先生がおっしゃるように辞書を持ち歩くというのがミソなので、それに応えるとしたら、たとえば以下でしょうか。 "Dictionnaire étymologique des noms de lieux en France, 2ème édition revue et complétée" http://www.amazon.fr/dp/2850230766/ (そういえば、informationに本の重さは書いていないな。) これもあった。 "Les noms de lieu de la France. Leur origine, leur signification, leurs transformations" http://www.amazon.fr/dp/2745300466/ 日本にもそういう辞書はあるけど、あいにく細かく読んだことなかったな。 東大表象文化論の天内大樹さんから依頼された原稿を仕上げる。専門外の人にわかるように書いてくださいと言われていたが、センスが問われるとおもう。 http://art-thinktank.com/ のメールマガジンにて掲載される予定なので、興味のある人は登録してみてください。まぐまぐで登録できます。 http://www.mag2.com/m/0000174341.html 表象文化論の方々による論文やインタビューなどを読むと、「表象文化っていけばなみたいだなあ。」と。剣山が下にあって、おのおのの植物を支えてひとつの形をぼくたちにみせていることが表象文化論の醍醐味かもしれないとふっと思った。 大学図書館の書庫にいく。図書館の奥にあって、窓ははめ殺しにブラインドがしてあって、一階なのに地下室のような感じ。空気も悪い。フランス地方史のコーナーでスペインに近い地方の"Toulouse et la région midi-pyrénées au siècle des lumières, vers 1670-1789" http://www.amazon.fr/dp/B0000DXG14/ を読んでいたらTrépanation(穿頭術)についての解説がちょっとのっているのはToulouseにHotel-Dieu Saint-Jacquesという有名な(おそらく)医学博物館があるせいか。日本語の解説もあった。 http://www.anesth.hama-med.ac.jp/AneDepartment/rekisitanpou-toulouse.asp すぐ近くにあるHotel-Dieu de la Graveという病院では聾の女の子が働いていて、聾者が医師とコミュニケーションできないために補助をする仕事をしている。フランスではここがはじめてのモデル。日本はどうかというとまだそういう仕組みはなく、手話通訳士を呼ぶにしても自分の病名が第三者にばれるという微妙な問題があるので、この病院から学ぶべきなのではないか。 ナポレオン3世の伝記があるのをたまたま見つける。どうも未登録っぽい。 それよりも一番の発見は"Trésor de la langue française"という辞書がころがっていたこと。途中までしかないのが惜しまれるがペーパーナイフがないと読めない状態になっていて未使用だとわかる。これはフランス語の言語学、文献学をやっている人にとっては絶対にはずせない辞書でこれもOPECには一部しかないので気づかなかった。思わず微笑んでしまった。 明日は「ふたご座流星群」ですよ。 2007年 12月 12日(水) 17時28分25秒 丁亥の年 師走 十二日 庚辰の日 酉の刻 一つ |
■ きこえる人がきこえないふりをする 2007-12-7(Vendredi) 聴覚障害の申請をめぐる不正診断書問題について。 個人的にこの報道は注目しているが、何もこういうことは目新しいことではない。「詐聴」というが、耳がきこえるにもかかわらず、きこえない振りをする ― ということは明治からすでにあった。それが現代になって改めてクローズアップされた感じを持っている。以前もすこし触れたが、明治時代の医学雑誌には、詐聴の見破り方を開発している論文が寄せられている。しかし、今回のように詐聴を見破るべき医者本人がきこえるとわかっていて診断書を作成してたのだからたちが悪い。身体障害者手帳を取得した目的は、減税やら障害福祉年金(1〜2級に認定されれば年間80万〜100万円近くもらえる)が目当てだったのかも、と報道を見て思う。それに今回の申請で不正したらしい人たちは、障害者手帳を持つことについて抵抗感はなかったのだろうか。ということも含めて考えると一体障害者とは、身体障害者手帳という装置はどう問い直されるべきだろうか。それが本当に問題にされるべきことなのだと思う。 「労災申請」がからんでくるのがミソで、労働と障害が密接な関係にあることをあらためて思い起こしてくれる。 あまたある障害で、聴覚障害はもっともごまかしやすいのかな。 http://www.stv.ne.jp/news/item/20071206185821/ 札幌市の医師が、耳が聞こえるにもかかわらず「耳が聞こえない」とうその診断書を書いていた可能性のあることがわかりました。 http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/64345.html 炭鉱労働者から頼まれた労災申請の代行に加えて身障者認定申請も手がけることになったのが発端で、社労士と地元の申請者をつなぐ複数の「取りまとめ役」も存在し、社労士らの“評判”が口コミで広がったとみられる。 http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/63958.php この医師の知人で札幌市内の社会保険労務士(66)が道や札幌市への申請代行業務を行い、身障者手帳交付を受けた約百人から計約二百万円の「成功報酬」を受け取っていたことが、三日分かった。この代行業務は行政書士の仕事で、社労士の本来業務ではなく、道行政書士会は「継続的に代行業務をして報酬を得ていたことは、行政書士法違反の疑いがある」として調査を始めた。 http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/64414.html 女性は四日に手帳を返還した。女性は約二年前に手帳を取得したといい、返還の理由を「友人から漢方薬を紹介してもらい、それを飲んだら該当しなくなった(障害が軽くなった)」と説明したという。 これははじめて知った。そんな漢方薬があったならば、聴覚障害者の間で話題になり、愛用する人もいるだろうから僕も知っているのではないか。飲む気はないが、薬の名前を教えてほしいなあ。 2007年 12月 07日(金) 23時07分54秒 丁亥の年 師走 七日 乙亥の日 子の刻 一つ |
■ バシリカにトレーラーが突っ込む 2007-12-6(Jeudi) 時間の合間をぬって三徳山三佛寺(6)を書いているところ。スキャナーが必要な箇所があって、その作業が終わったらアップできそうなので楽しみにしている人がいたら(いるのか?)期待してください。 こんなニュースがありました。 http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20071203-290921.html http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/63859_all.html http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/63797.html 要するに、身体障害者としての認定を受けるには、指定医の診断が必要なんだがその書類が虚偽らしいという内容だ。なぜ虚偽をするのだろう、というあたりで個人的に興味を持っている。聾に関する情報はデフニュースというのに詳しいんだけど、 http://www.deaf.or.jp/ そこにはまだ今回のニュースが出ていないので大多数の聾者は知らないかもしれない(ちなみに僕の投入堂参拝のこともアップされていないけど)。デフニュースには新聞記事をお知らせすることがあるが、掲載の基準はどのようになっているんだろうね。 結局、情報は自分でアンテナを立てて集めるのが一番だ。 先週でテレビの「新シルクロード」の第七集が終わったんだけど今回選ばれたロードは紛争や内戦があったところを選んでいて、昨今の国際事情を反映している内容。仏像や建築を紹介していた80から90年代がすきなだなあと改めて思う。 http://www.nhk.or.jp/special/onair/silk.html 国立天文台が出しているメールマガジン「アストロ・トピックス」に「ふたご座流星群」の情報。極大期は今年は12月14日夜21時頃から15日明け方の4時頃だと推測されているが、月明かりの影響を受けないのは13日は19時半頃、14日は20時半頃、15日は21時半頃 (ともに東京における時刻) とのこと。僕が住んでいるあたりは街灯がちょっとあるので見にくいかもしれないが、時間が許せたら屋上から見てみよう。 http://www.nao.ac.jp/phenomena/20071212/index.html ちょうどこれが出ていた。 http://www.dezeen.com/2007/12/04/a-shop-in-a-church-by-merkx-girod-architecten/ Merkx + Girodが教会に書店をデザインしているけど、バシリカに本を詰め込んだトレーラーが突っ込んだんじゃないかと一瞬思った。 黒い本棚は大アーケードの高さまでに設定しているようで、サイズが合っているようにみえる。十字架を横にしたようなテーブルもデザイン上で意識しているはず。写真を見ただけだが、個人的には教会とも書店とも感じられる点がおもしろそう。 今年早々に発表されていたものがリンクされていたが。 http://www.dezeen.com/2007/04/09/st-bartholomew%E2%80%99s-church-by-maxim-velcovsky/ 教会の椅子って、木製って思い浮かべるのだけど、これはヴェルナー・パントンというデザイナーの有名なプラスチックの椅子に十字架をパンチングするようリデザインして、さらにペルシャ絨毯にシャンデリア。教会の壁も塗りなおしているって。なんか妙なマッチング感が出ている。 2007年 12月 06日(木) 18時42分42秒 丁亥の年 師走 六日 甲戌の日 酉の刻 四つ |
■ 障害者の感覚 2007-12-4(Mardi) 最近、盲の方々のコミュニティで、ウォルター・オングとかフリードリヒ・キットラー、テオドール・アドルノ、マーシャル・マクルーハンといった大物らの本について感想をきいてみたら、読んだことない、知らないとのこと。これって問題にされるべきで重大なことだ。正直、ぼくは憂いを抱いてしまう。盲といっても全盲からそうでないものまで多様で、ひとくくりにはできないが、感覚が欠如していたり、欠如しかけている人たちがどのようにキットラーを考えているのか、それを具体的に見出す方法はないのだろうか。 こんなニュースがある。 http://wiredvision.jp/blog/dangerroom/200711/20071108134727.html 超人的な聴覚で捜査、盲目の警察官チーム ベルギー連邦警察内の自分のオフィスで取材に応えたVan Loo氏は、「目が見えないため、必然的にほかの感覚が鋭くなった。刑事としての私の能力は、この耳にかかっている」と話す。 (・・・中略・・・) 警察がテロの容疑者の電話を盗聴する場合、Van Loo氏は、発信の際のダイヤルトーンを聴いて即座に電話番号を特定できる。壁に反響する声を聞いて、容疑者が空港のラウンジで話しているのか、混雑したレストランで話しているのかを推定できる。 ある感覚を失うことによって、他の感覚が鋭敏になるという話はよくきく。しかしこの記事は正直すごいな。電話の向こうにある空間がみえている。僕の場合、聴覚を失っているのだから、視覚か他の感覚が鋭くなっているかもしれないが、ぼくの視覚は普通だし、他の感覚もとりわけ鋭いとはいえない。自意識がまったくないのでそれはないように思う。 原タイトルのA blind Sherlock Holmes: Fighting crime with acute listeningで思い出したが、エラリー・クイーンの小説『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』に出てくるドルリー・レーンは耳がまったくきこえず、読唇術を完璧にこなすという設定だが、彼ほど完璧に読唇する人は稀で、僕だと相手の言うことが分らず結局筆談してもらってばかりである。 2007年 12月 04日(火) 00時19分53秒 丁亥の年 師走 四日 壬申の日 子の刻 三つ |
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