■ アテネフランセ 2008-2-26(Mardi) アテネフランセにいく。ひさしぶり。 古びた教室は健在で授業カリキュラムをみるが、当然ながらフランス手話の授業はない。日仏会館かここがもしやれば日本初だよ。知人がここで先生をしているが、今日はいないみたい。 外の紫のかかったサツマイモ色の壁もまたひさしぶりだった。 ワイズマンの映画『多重障害』をみるが、この内容は戦慄さがあるね。子供が戸惑った目をしているのに「幸せ?」と問いかけたり、最後のシーンで神を賛美する生徒たちをみると、なにか怖さがあった。 帰り道、神田古書店を歩く。少し本をみるが良いものはなく。 ドゥルーズ『フーコー』のハードカバー(つまり最初に出版されのやつ)があったけど、線引きがものすごくて買えなかったのがちょっと残念。ぼくも本に線をひいたりするけど、あとで消せるのでまだ良い方だと思っているのだけど。 この界隈は結構歩くのだが、最近はじっくり見ていない。 渋谷でルノワールルノワールというルノワール親子の展覧会をみる。 http://www.ntv.co.jp/renoir/ ご存知、父が画家で息子が映画監督で展示も絵と映像がシンクロする構成になっている。この展覧会は確か2、3年位前にフランスでやったんだけど、それをここでもやっているわけね。 息子の「ゲームの規則」"La Règle du jeu"という映画をみてて思いだしたが、今千葉市美術館でやっている「芳年・芳幾の錦絵新聞 −東京日々新聞・郵便報知新聞全作品−」 http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2008/0112_2/0112_2.html をみているときにフランス語のキャプションでjeu(遊び、ゲーム)の使い方を間違えていたので、スタッフに「あのフランス語違いますよ」と言ったら「いや、違わないです」と返されて面食らった。「いや間違ってますよ。」というと、他のスタッフを呼んでいたのだが、やはり間違っていた・・・という出来事。 錦絵新聞をみるのは初めてではないが、すごくおもしろく、障害者もいろいろ出てくるし、兎売買禁止令の錦絵、駆け落ちとか色事も絵にされているものがある。ルイ・シェヴァリエ『三面記事の栄光と悲惨――近代フランスの犯罪・文学・ジャーナリズム』とからめて考えるとおもしろい展覧会だと思う。三面記事と訳されているのはおそらく、"Fait divers"だと思う。年代的にはフランスが先行していると思うが、共通しているのはどちらも決定的瞬間を出すという点で、それはありえない動きをしていたりする、想像力の賜物といえるものかな。 東京日日新聞はいうまでもなく毎日新聞の前身だった新聞社で、「江湖叢談」という三面記事的なコーナーからひとつ錦絵にする仕組みのようにもみえる。展覧会ではあまりカタログを買わないタイプなのだが、今回ひさしぶりにカタログを買う。 一階の「日本の版画 1941-1950 「日本の版画」とは何か」もいく。これは1997年から続いていたシリーズの最終回。あいにく最初のは見ていない。 http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2008/0112_1/0112_1.html 恩地孝四郎の朔太郎肖像がトップバッターになっていて、これははじめてみたけど、去年にみた国立近代美術館での日本の彫刻展での朔太郎のと違う雰囲気がしている。こっちのほうは恩地が力を入れてバレンを強く摺ったために朔太郎の顔にある皺と紙の皺が同時にでているのがおもしろい。視覚としての皺と、触覚としての皺。 前川千帆、ワルワーラ・ブブノワ、平塚運一(加藤太郎の先生らしい)、武井武雄、川西英、上阪雅人らの作品も出ていてうれしい。じっくりみていく。 2008年 2月 26日(火) 23時02分28秒 曇ときどき雨 戊子の年(閏年) 如月 二十六日 丙申の日 子の刻 一つ |
■ Bon anniversaire 2008-2-22(Vendredi) 誕生日を迎えました。 去年と比べて、インパクトという意味では去年だね。生きてる!という実感がすごくあっただけに面白い誕生日だった。 でも今年のように淡々と時間がすぎてゆくのもいい。去年一年間、大病することなく、元気に過ごせました。諸処の器官に感謝します。毎年この日には思うのですが、とりわけ手、足・・・耳、といった自分を形成しているそれに感謝。 孔子『論語』には「知にして威ならず」という言葉があって、知識はあるが威張っていないという意味なのだけど・・・このとおりに生きたいと思っているのだけど、それはなかなか難しい。知識の副作用は「権威」なのだから。なにかを学ぶ時に一番大事なのはいうまでもなく、謙虚であることだと思うのですが、その姿勢を忘れないように、と誕生日のときはいつも思いだす。 明日からまたよろしくお願いします。 2008年 2月 22日(金) 23時22分05秒 晴 戊子の年(閏年) 如月 二十二日 壬辰の日 子の刻 一つ |
■ ステラ的 2008-2-21(Jeudi) フランク・ステラを思い出す船。 元ネタはこちらから。 http://blog.modernmechanix.com/ |
■ 逆輸入 2008-2-19(Mardi) あるブログから逆輸入的に知ったが、 http://www.notcot.com/archives/2008/01/anatomical_bull.php ご当地解剖シリーズというのがあるらしい。 http://www.asunaro-co.jp/lineup/kaibouzukan/index.html マグロの部位解説 http://www.asunaro-co.jp/lineup/kaibouzukan/touhoku/main_touhoku.html 最近、「いのちの食べかた」を見たので、思うことあるんだよな、このグッズ。 いいタイミングでもうすぐ"Ephermeral Bodies: Wax Sculpture and the Human Figure"っていう本が出る。 http://www.amazon.com/gp/product/0892368772 ミシェル・シオン『映画にとって音とは何か』を読んでいたらものすごく映画がみたくなって、いくつか。 2008年 2月 19日(火) 20時41分15秒 戊子の年(閏年) 如月 十九日 己丑の日 戌の刻 四つ |
■ 宝石が転がった床の上を歩く 2008-2-16(Samedi) 「わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者 Self / Other」という展覧会に。 http://www.momat.go.jp/Honkan/Self_Other/index.html タイトルはたぶん「私、今、めまいしたわ」という意味の回文なんだろう。 検索すると、 http://www32.ocn.ne.jp/%7Espring/PALIND.HTM によれば、村上春樹からとっているそうだが。 http://www.kaibun.jp/ これはおもしろいね。 時間があまりなく、少し急いでみるが、浜口陽三の裸婦スケッチは足が止まった。版画家で知られる浜口だが、清楚そうな女性を木炭でかいたものが10枚まとめて出ていた。なかには身体のみだったり、頭部だったり、手のない身体だったり、全体をみせないで、10枚の紙にそれぞれ別の意識(身体のある部分に対する注意)があるのがおもしろい。身体的な欠陥はないが、スケッチでは身体の一部分が描かれていない。切断されているという言い方はおおげさだろうけど、見えない部分があるというところにひかれるし、見えている部分に僕の視点や意識が引き込まれる。それにしても、モデルの女の子、とても美人。浜口の理想なのかそうではないのかわからないけれど、男の欲望を満たしてくれる女の子という直感がした。 "God bless america"は高嶺格の作品だけど、これはみたことなかった。反米作品ではない、と伺っていたけど、音楽がきこえない僕としては、男女がからみあっていくさまを淡々とうつしだしているように感じられる。 http://www33.ocn.ne.jp/%7Eartv_tenpyo/tenpyo/webtenpyo/3-5/ishibashi-takamine.html 常設展示にも寄る。版画コーナーは加納光於。澁澤龍彦を読んだことがおありならこの作家が誰かすぐわかるだろう。作品はなにか丸いものからじくじくと液体が滲み出るような作品群は病的な感じもあるし、湿り気のあるような版画とでもいうのかな。金属的な、錆・・・ということをキャプションの解説にはあったけれども。 中沢弘光「まひる」1910 というのが点描コーナーに展示されていたが、この画家は実にいい。一般的な点描とちがって中沢はわりと細長い筆運びなのだが、暖かい空気、冷たい空気を絵具の厚みや動きに閉じ込めているよう。 国吉康雄特集で「誰かが私のポスターを破った」が出ていた。18年ぶり。 http://www.momat.go.jp/Honkan/Kuniyoshi/ これはおもしろいね、錯覚だけど、手が女性に襲いかかるような。モーパッサンのホラー小説に「手」というのがあるが、あれも切り取られた手が人を襲うというもの。 最近、宝石のようなとてもカラフルなあめ玉のようなものが床にバーッて散りばめられていて、その上を歩く自分という短い夢をみたが、これはたぶん、銀座のメゾン・エルメスでみたサラ・ジー展のせいだろうし、国立近代に展示されていた村上知晴の「monos」のせいかもしれない。この作品は黒から徐々に赤が浮き出てくるかのような18点セットのペンティング。 http://www.sarahsze.com/ 2008年 2月 16日(土) 15時02分31秒 晴 戊子の年(閏年) 如月 十六日 丙戌の日 申の刻 一つ |
■ 梓弓 2008-2-14(Jeudi) 今日、帰り道でバスの中で後輩に会ったので、挨拶したらシカトされてしまった。なんでシカトされるんだろうなあ、がっかり。 いつも行く美容院でお願いしていたスタイリストさんが遠くに引越しすることになり、最後のカットをしてもらう。3年位お願いしていたのでこれも名残惜しい。次のスタイリストさんを紹介してもらったが、最初はちょっと仕上がりに緊張するかもしれない。 今更だが、電車のなかにテレビがあるのだが、放映しているCMをみていると字幕がついているではないか。家のテレビでみるCMと同じものなのに、字幕がついている。これはおそらく、電車内の騒音とかで音が聞き取りにくかったり、車内放送だったりでテレビの音声を出せないのだと思うのだが、せっかくならこういう仕組みを家庭でもやるべきなのではないか、と思う。 出光美術館の「王朝の恋―描かれた伊勢物語―」へ。伊勢物語は恋愛物語というイメージがあるが、それは正確ではないように思う。言うなら、「王朝の男女」・・・在原業平をモデルにした物語で恋愛の部分を抽出したという感じかなとも思う。 ルオーの絵画もそうだとおもうが、テキストを絵画化するという試みのなかで問題にされるのは、テキストの解釈なのだとおもうけど、一段(姉妹)、十二段(武蔵野)、六十三段(つくも髪)(←これは批判もあるが)など。 たとえば、十二段を全文引用すると、 むかし、おとこありけり。人のむすめをぬすみて、武蔵野へ率て行くほどに、盗人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらのなかにをきて、逃げにけり。道来る人、「この野はぬす人あなり」とて、火つけむとす。女、わびて、 武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。 と。男女が駆け落ちして、武蔵野にいくと国の守に捕まり、女を草むらに捨てて逃げてしまう。武蔵野に盗人(男)がいるらしいぞ、ということで野焼きをしようとしたら女が「武蔵野は今日は野焼きをしないで、男も私も隠れている」とうたったら、女を連れ去ってしまったというストーリーだが、問題は「国の守にからめられにけり。女をば草むらのなかにをきて、逃げにけり。」というくだり。男は捕まったのか、逃げたのか判然としないから、男が女のうたをきいて、連れ戻していったのか、それとも国の守が男も女も捕まえたかという両方の解釈が可能。 で、俵屋宗達が描くと以下のようになっている。解釈も同じかはわからない。 男と女が一緒に草むらにいて、国守たちが三人、松明のようなものを持っているシーンである。視線をみると、国守たちは同じ方向に向けられていて、2人を発見しているようにみえる。男女は国守たちに注意しつつも、お互いを見つめて「どうしよう」というニュアンスにみえる。女は背中を向けており、捕まりたくないという印象。ということは、男は女を捨ててはおらず、国守が2人を一緒に連行したということになろうか。 ・・・というようなこと。 二十四段(梓弓)で、男に失恋した「女、いとかなしくて、後にたちてをひゆけど、えをいつかで、清水にある所に伏しにけり。そこなりける岩に、およびの血して書きつけける。」・・・そして死んでしまうという段があるが、悲恋なのだけど、なぜかとても好きだ。 2008年 2月 14日(木) 21時23分23秒 快晴 戊子の年(閏年) 如月 十四日 甲申の日 亥の刻 一つ |
■ ものまねの、ものまね 2008-2-10(Dimanche) 文楽「義経千本桜」をみにいく。 http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1711.html 今回は伏見稲荷の段、道行初音旅、河連法眼館の段の構成になっていて、狐が佐藤忠信という義経の家来に化けて姫を助けるのだが、本物の忠信が出て・・・という内容。つまり、忠信にスポットライトが当てられている。 狐が出てくる物語は多いが、とくに狂言の「釣狐」は動きが人間の動きではないし、狐が化けている人間もやっぱり人間ではない。つまり、狐が人間のものまねをする。演者は人間だから、人間が狐のものまねをして、さらにその狐で人間のものまねをするという二重構造になっている。それが文楽ではどうみえるか、というのを楽しみにしていた。 道行初音旅は清治さんが呂勢大夫、咲甫大夫らとかけあう。みていて僕も盛り上がってくる。呂勢大夫は女形の声がやっぱり雰囲気が出てていいね。呂勢大夫の静御前は和生さんがやられているのだけど、相変わらず良いテンポ。とくに悲しみで息をハアハアさせるあたりが印象に残る人形遣い。 勘十郎さんが狐忠信(源九郎狐)をやられていたけど、こういう感じの役が得意なのかな。狐と人間の早変わり、宙吊り、木登り、障子破り・・・黒子が重要な仕事をするのはいうまでもないが、神鬼出没の動きを加味していくことで狐もだんだん妖しくなってくる。フワフワと人形をうごかしたり人間にはありえない動きが出来るのが人形の強みなんだと思った。でも、これをやりすぎると人形じゃなくなってしまう。 静御前が鼓を叩くと、狐は人間に化けた状態だから、人形のまま狐の動きを加味していくために、手がカキツバタになっていたような?あまり見えなかったんだけど。つまり、手がだんだんと丸まっていき、こんこん・・・と動物のような動きになってくる。そういえば、吉田玉男「文楽藝話」にはこの役があまり好きではないとある。 「祇園祭礼信仰記」金閣寺の段で慶寿院を救うために東吉が桜をよじ登って金閣寺の上に忍び込むシーンは三重のセリ上ゲセリという外連があって、あれは大技でたまげたけど、今回はかなりたくさん仕込まれていて小気味のいい連続技を食らった感じ。さっきの三重セリ上ゲセリというのは、金閣寺に登るために一階から屋根のてっぺんにいる鳳凰の彫刻まで舞台がだんだん下がっていくやり方。高木浩志さんによれば、若竹笛躬が考案したらしいという説を紹介しているが、そうだとしたら18世紀末のことだよなあ、舞台装置はどんな構成になっていたのだろう。フランスのオルセー美術館にはオペラ座の舞台断面模型があるが、それこそオペラ座の怪人が潜んでいそうなビッシリした歯車、紐に囲まれて舞台の下にもからくりが仕組まれているが、ああいうものではないね。同じ木材だけども、違う。 2008年 2月 10日(日) 22時22分36秒 曇 戊子の年(閏年) 如月 十日 庚辰の日 亥の刻 三つ |
■ 傳移模寫 The Tradition of Re-Presenting Art 2008-2-8(Vendredi) 最近は朝から晩まで動き回る生活。また大乗寺にいくための準備に追われている。 そんななか、行こうかと思っている美術展で千葉市立美術館の http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2008/0112_2/0112_2.html 「芳年・芳幾の錦絵新聞 −東京日々新聞・郵便報知新聞全作品−」 これは楽しみにしているところ。文字と絵をみながらいくだろう、時間がかかりそうだ。東京日々新聞は時々お世話になる新聞。 タイミングがあえば泉屋博古館も行きたいが、こちらはあと一週間ぐらいしかない。 http://www.sen-oku.or.jp/tokyo/program/index.html 水戸芸術館でもうすぐ宮島達男展、川越市立美術館で橋本雅邦展がある。 http://www.soum.co.jp/mito/miyajima/miyajimaj.html http://www.city.kawagoe.saitama.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1195697654711&SiteID=0&ParentGenre=1104984856202 宮島展は5月までなのであわてなくて大丈夫だけど。 橋本展は古田亮さんがトークするらしい、古田さんといえば松本亦太郎の美術評論について少し書いている。絵から声を読み取る、ということについて。 あと、気になっている所として行くのは無理そうだけど、台北の国立故宮博物院で傳移模寫 The Tradition of Re-Presenting Artという、なかなかにくい展示がある。 http://www.npm.gov.tw/exh96/re-presenting/index.html これは去年の夏、東京国立博物館でも模写・模造のちょっとした展示があったが、これより面白そう。写すということは完全なコピーを意味するのではなく、本意を写せるかというところを考えるのによさそうな展示。 あとネットサーフィンで見たところとしては、 http://www.ab.cyberhome.ne.jp/%7Elilac/syogai/syolist2.htm 「障害探偵登場」というコーナーがおもしろい。みてみると結構知らない探偵も多いね。『蜘蛛の巣(上下)』(ピーター・トレメイン、甲斐萬里江訳、東京創元社、1997)というアイルランドを舞台にしたサスペンスが気になる。 マクベインの『電話魔』『死者の夢』もおもしろい。 それはそうと、山田風太郎は昔、身体検査で不合格になったことがあったらしく、それが氏における「障害」概念に大きな影響があるらしい。ウィキで知ったが、2chにも似たような書き込みがあり、気になる。これも読んでしまおうか。 2008年 2月 08日(金) 01時44分26秒 雪が解けてゆく晴れの日 戊子の年(閏年) 如月 八日 戊寅の日 丑の刻 二つ |
■ Le Scaphandre et le papillon 2008-2-4(Lundi) "Le Scaphandre et le papillon"という映画が去年フランスで出ていて、本国ではもうDVD化されているが、 http://www.lescaphandre-lefilm.com/ 今週から日本でも『潜水服は蝶の夢を見る』として上映されるとのことで楽しみにしているところ。 http://www.chou-no-yume.com/main.html マックス・フォン・シドーが出演しているが、久しぶりだね。 この映画は突如として身体の自由を奪われた雑誌編集長が主人公だけど、『ボディ・サイレント』という本を思い出すところ。 http://www.amazon.co.jp/dp/4582765661 徐々に身体が動かなくなる、という点では違うけども。 この平凡社ライブラリー版には最後に辻信一さん(彼、べてるの家も訪問したみたい、うーん!ぼくもいかなくてはなあ!)のあとがきもあり、立岩先生の書評が載っていて二度三度ハッとする本だが、立岩先生の http://www.arsvi.com/0w/ts02/2005044.htm 「身体の外の世界であれその内側の世界であれ、世界があれば、それだけで生きていることはよい。それで私は、身体やあるいは頭が動かなくなることを悲しんで死にたくなったり、実際に死んだりするのは、その人のまわりにある社会の仕組みや価値が間違っているためだと考えるしかない。」 というメッセージには力づけられるものがある。 これで知ったのが、『モリー先生の火曜日』という本。 http://www.amazon.co.jp/dp/4140803835 ジャック・レモンが出演の映画にもなっているのでこれを機会に見比べるのもいいだろう。 そういえば、去年の今頃は「それでも僕はやってない」という痴漢の冤罪事件をテーマにしたのを見たなあ。 2008年 2月 04日(月) 18時03分23秒 昨日は雪、今日は残雪と晴、モネの絵のような天気 戊子の年(閏年) 如月 四日 甲戌の日 酉の刻 三つ |
■ 銀座周遊 2008-2-2(Samedi) 東京駅八重洲方面にある不忍画廊におじゃまする。オーナーの奥さんに会いたかったがあいにく不在とのこと。でもそこにいた人がたまたま手話ができるということで少し話す。松本竣介のスケッチが一枚出ていた。かつてここでは何枚か松本を所有していたが、いまはこの一枚しか残っていないらしい。 "Le pays des sourds"のことだけど、一番美しいと思ったシーンは、最後のシーンで「この話はこれでおしまい」と"Fin"と手話でやるのだが、その初老の男性がとった表現はF、I、Nの三文字をグラデーションのように動かしてF..I...Nとやっていた。 ああ、これはすばらしいよ、すばらしい感性、すばらしい指の動き。このワンシーンがこの映画の価値を高めている。思わずその手話をコピーしてしまった。 ぼくの人生もこんな感じで終われたらいいのだけど、そうはいくだろうか。 映画のあと、お友達とお茶する。チョコレートで有名な明治の「100%チョコレートカフェ」という店にいたら、ひっきりなしにかわいい女の子たちが出入りする。 Apple store 銀座に行ったら、Macbook Airが出ていた。ニュースによればちょうど昨日から成田直送だったらしい。あのマルチタッチの感触がどんな感じかとおもったので、画像の拡大縮小などやってみて・・・おもしろかったのはアルバムをめくる感じで指を動かすとサッと写真がめくれていくことだね。これは楽しい。 http://ascii.jp/elem/000/000/104/104916/ マルチタッチもできるデスクトップ型が出たら欲しいと思う。カメラをもったプレス関係者がたくさんいたので、あとでニュースをチェックしていたら案の定自分も写っていた。 http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20080201/292827/ 2008年 2月 02日(土) 14時13分33秒 曇 戊子の年(閏年) 如月 二日 壬申の日 未の刻 三つ |
■ Le pays des sourds 2008-2-1(Vendredi) ニコラ・フィリベールの"Le pays des sourds"(音のない世界で)をみにいく。日本語字幕は丸山垂穂さん。 みていて、残念ながら誤訳があった。あまりにも大きな誤訳はないが、例えば初老の男性が昔話をするシーンではじめてLSF(フランス手話)を習得していく過程の話をしていたとき、「一ヶ月、一ヶ月・・・」と"un mois"と「少しずつ時間をかけて」というニュアンスを込めて表現していたのを「二ヶ月後」と字幕で出しちゃっていた。あれはそのニュアンスが台無しになる。もしそうなら男性は「二ヶ月」とLSFで表現したはず。 しかし、字幕は文字数が限られているし、表示時間のこともあるのでどこか削らなければならないことがある。でも字幕とLSFのタイミングがめちゃくちゃだった。たとえば、字幕が終わった時にまだLSFをやっていたとか。とか挙げればきりがないが、この映画ではおそらく音声を誰か手話通訳士がだしているのだろう、丸山さんはその声を頼りに訳されたのかもしれないけど・・・丸山さんがLSFを知っているかどうかは別にしても、手話に対する訳し方がなっていないなと思うことがあった。 前に、『音のない世界で』というタイトルが気に入らないと書いたが、みていてやっぱりそう思う。結婚式パーティのシーンで彼らが手話でワーッとしゃべっているシーンは全然、音のない世界ではない。もし僕が丸山さんだったらタイトルを「音のはざま」「音と音のあいだで」とか訳すかもしれない。 すみません、なんだかえらそうに書いてしまいました。 とはいえ、映画はすごくおもしろかったよ、ぜひフランス語を話す日本人はみてもらいたい。口話と手話で揺れるフランスの聾者の像が炙りだされている。一昔前のフランスにおける聾教育のワンシーンがみられたのはひさしぶりだし、口話教育についても思いを新たにした。 2008年 2月 01日(金) 20時45分46秒 晴 戊子の年(閏年) 如月 一日 辛未の日 戌の刻 四つ |
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