■ 奈良と京都で 2009-7-26(Dimanche) 奈良国立博物館と京都国立博物館をはしごする。 それぞれの博物館に別々の日に行ったことはあるのだが、同じ日に行くということはなかった。奈良、京都の順でみたのだが、こうしてみると意匠の共通点が結構感じられてくる。 奈良は「寧波」展をみる。 http://www.narahaku.go.jp/exhibition/special.html 五百羅漢図(京都・大徳寺)が公開されるのを目当てに。一見したところ、表装は同じようにみえるのだがよくよく見てみれば、中廻しが微妙に異なっている。少なくとも点模様、草花、葉、南国風といった4種類の透かしの入った中廻しになっているのが興味深い。ひとつひとつの軸もしっとりと筆が入っていて、中国から持ち込まれた際、いかに丁寧に扱われたか伺えるよう。 1924年に崩壊した雷峰塔の大きな写真をはじめてみたが、さすが開宝期(10世紀末)に建てられているだけあって、壁から木が生えたりしていて、植物とのミックスがものすごい濃度でされている。 建築史で重要な人物といえば重源がいるが、その塑像も出品されていた。両目がアンバランスということに気づかなかった。かくいう僕も両目がアンバランスなのだけどね。 博物館の池をみていたら、アメンボがいた。水の表面張力で水上を動き回ることができるわけで、水との共存をすごく考えさせられる生き物だとおもう。 和本も見ていこう。『喫茶養生記』はよくしられた日本最古の茶のガイドブック。茶は末代養生の仙薬、人倫延齢の妙術・・・という漢文。高校生のとき、古典の教科書に載ってもおかしくないようなあたりだけれど(僕のときは載ってなかった)。 最後に雪舟の「破墨山水図」がひっそりとある。すぐ榑沼さんの『視覚論』を再読しておかなければと思った。 常設展をみる。伝行賀坐像についてだけど、片膝を立てる、というのは現代からみれば行儀が悪いとみえるかもしれないが、そうではなくて当時の座法なのだけど・・・ぼくはそれより狡い表情が印象に残った。ぬけめのない精神。キャプションをみたら「信叡ではないかと思われる」とある。知らなかったな・・・。 京都国立博物館は「シルクロード 文字を辿って−ロシア探検隊収集の文物−」という展覧会をみる。 http://www.kyohaku.go.jp/jp/tokubetsu/090714/tokubetsu.html ほとんどが写本で出品物のボリュームと関係するからか、博物館の中心にある部屋は椅子が並べられているだけの部屋になっていた。 シルクロードといえば、ぼくは中学生のときに井上靖の『敦煌』を読んで、興味をもったのが最初のきっかけだったことを思い出す。あのころ、冒険譚のようなものが好きだったからね。いまも変わらないかもしれない。 唐代の絵の断片で、馬の下半身だけが残っているものをみると、ジェリコーの『エプソムの競馬』という馬の動きが議論になった絵画があるんだけど、唐代の人の視覚はそれとちょっと違うな・・・この断片は注目するべきだと思う。 敦煌千仏洞全景図は個人的に収穫だとおもう。建築家と地理学者の共同作業で編み出された巨大なパノラマは、実寸大ではないにせよ、その迫力を思わせる。 女流詩人、李冶について言及された折本(だったかな)を通り過ぎて見た占烏法というのがおもしろい。動物の動きをみて吉凶を占うというのは、どういう思念が働いているのか、興味がまたひとつ増えた。 西夏文字はどこがどうなっているのか、まったくわからない。会意 - たとえば木を3つあわせて「森」とするとかそういうのだけど、その組み合わせがどうなっているのか、なんとかわかりそうだけど、パーツが何をいわんとしているのか全然わからないので、どういう法則が見いだせるのだろう。 そういえば、まったく字がわからない異国で習得する方法として、なにかを示している字同士を比較して見いだす、とかいうのを何かで読んだことがあったような気がするけど。 2009年 7月 26日(日) 20時41分09秒 己丑の年 文月 二十六日 壬申の日 戌の刻 四つ |
■ 夏の路傍 2009-7-15(Mercredi) 梅雨があける。夏がやってきた。 夏がやってきた、という瞬間はひとつの季節が終わったということであり、そこに別れを感じる。僕にとって、春がきた、というのは水道水が冷たくなくなった日をいっている。土中の温度が春の温度になっている。じゃあ夏の場合は?というと、まさしくカラッとしたこの肌にささる日光がそれだろうか。 2009年の夏はいろんな意味で印象的な夏になりそう。恋の季節、青春の季節。かき氷の季節! 明治前期の新聞記事で、死体を供養するやり方についての記事があり、興味深い。ほかにも飼い犬が行方不明になったのでご存知ありませんか? 火事のときは助けてくださってありがとうございました、という広告もうたれたりしていて、いまのぼくたちからは想像しにくい感覚がそこにある。 字幕チューナーが壊れてしまった。これは僕が小学生のときに親から買い与えられたもの。リモコンは大丈夫らしいのだが、本体がおかしくなり、斜めに傾けると作動することもあるのだが、すぐ止まってしまう。なのでここ最近はテレビをみても何を言っているかわからず、過去に戻ってしまったかのよう。字幕というメディアが失われるとぼくの目はテレビがなにをしようとしているか、そのメッセージを読み取ろうと自分の感覚のファインダーをテレビそのものにあわせようとしているのがわかる。字幕があるとこんなにあわせようなんて意識していない。 東京国立博物館へ。 横山大観の「無我」をみる。惚けたという表現が似合う顔なのだと思う。知的障害者のような美学がある。 貝殻や石に法華経らしき経文を記している貝殻経、経石というのがあり、とても心にのこった。 このなんでもなさそうな、ちっぽけなものにお世辞にも上手とはいえない字を記していくのをみると、まるでひそひそ話のような、秘密めいたものをちょっと覗き見してしまったようなものを感じる。貝殻、石といった個々の存在が文字を記されることによって、なにか、現代のわたしたちと過去のわたしたちのあいだを縷々とつなぐ細長い糸の役目を果たそうかともみえる。いまこの瞬間、名もなく消えていった人たちがよみがえってくるというか。 2009年 7月 15日(水) 21時41分32秒 己丑の年 文月 十五日 辛酉の日 亥の刻 二つ |
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