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2011-12 journals

山田幸司さんへの追悼文「山田幸司さんの筆談」
2011-12-14(Mercredi)
2009年に亡くなった山田幸司さんを追悼する書籍『山田幸司作品集ーダイハード・ポストモダンとしての建築』が刊行されたとのこと、名古屋工大の北川啓介さんから追悼文を書いてほしいという依頼があり、書き送ったのですが、出版の事情でわたしのものが省かれたとのことなので、以下に全文掲載することとします。

それにしても3年過ぎるのか。
結局、話を聞けないままだったことが今も悔やまれる。

以下全文ですが、読みやすさを考慮して適宜改行したところがあります。
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山田幸司さんの筆談

 わたしは、全く耳が聞こえないので手話と筆談中心の生活をしている。ゆえに、数えきれないほどたくさんの人と筆談をした。その人と会話したことがある人はきっとその声を知るように、わたしはその人と、筆談する姿と字が脳裏にある。字を見て、その人を思い浮かべることができる。しかし、山田さんと一度も筆談をしたことがなかったために字を知らない。どんな字を書く人であっただろうか。
 山田さんとの接点は二回だけだ。まず、2008年5月30日から6月1日までの三日間で行われたアートスタディーズによる山陰地方の建築ツアーであった。もとはといえば、天内大樹さんと一緒に企画したものである。初日、待ち合わせ場所の豊岡駅に現れた五十嵐太郎さんの後ろに黒いジャケットに白いシャツ、シルエットの太いパンツを履いた男性が肩にニコンの一眼レフカメラを提げて現れた。膝を外側に向けて歩くような、独特の歩き方が目に留まったことを覚えている。男性はまもなく煙草をふかしはじめる。その時、わたしはその男性が山田さんとは分からなかった。山田さんと知ったのは、夜に泊まった倉吉の桶屋旅館では門限があったにもかかわらず、五十嵐さんと南泰裕さんと山田さんの三人が抜け出して飲みに行ったと天内さんから聞かされたときである。翌日に三徳山三佛寺投入堂を訪問することになっていた。投入堂をはじめて訪問した日の夜、わたしは寝ることができないほど怖かった。そのような危ないところに行くのですと前もって話しているのに大丈夫であろうか、と軽い憤慨を感じつつ就寝した。それが、山田さんへの最初の感情であったために − だから最初の印象はよくなかったと告白しておかなければいけない。
 二日目、投入堂を登ったとき、山田さんはなんとジャケットのままであった。大丈夫かなと天内さんと顔を見合わせたかもしれない。この様子は、[2008年]6月3日に山田さんご本人がブログで述懐している様子をなぞってみよう。
(付記:ブログの全文は以下のとおり http://blog.livedoor.jp/koji_yamada_arc/archives/51303061.html

「国宝投入堂を見るために三徳山三仏寺へ。わいわい言いながら入山するも、まだこの後に起こる試練をまったく理解していない。」

登山口に到着すると山田さんはパンツの裾をあげている。このとき、

「わらじに履き替える。出発。せいぜい10分くらいの登山だと思いきや、登山ではなく、ロッククライミングでした。ありえないです。(中略)あまりの疲労に、呼吸困難になるのではないかと心配した。こんなことをまったく予想していなかったというか、完全になめきっていたわれわれは、五十嵐さんがPC入りのかばん、山田はでかいニコンを持っていく、南さんと僕はジャケット着用などの暴挙に、その後とんでもないしっぺ返しにあう。」

とし、到着したときは

「投入堂を見たことがない人間は、建築語る資格がないとの思いがこみ上げてきた。」(原文のまま)

と岩肌にはりついていた。これを読んだとき、とても共感して山田さんとすごく話をしたくなったことを覚えている。実をいえば、ツアー時、わたしは山田さんご本人の口からこのことを伺っていないし、一度も会話をしていない。山田さんと目が合ったときに思ったのだが、わたしに対してどのように接したらいいのか測ろうとしていたように思う。だが、山田さんを知る方々はよくご存知のように、山田さんは本当によく話す人である。わたしは何を言われているのか、ちっともわからないが、話を聞いている周囲の顔をみると引き込まれているのがよくわかる。最終日に「島根県立古代出雲歴史博物館」で天内さんから言われた待ち合わせ時間を勘違いしていたために、ツアーの皆とはぐれてしまい、そのままお別れとなった。これはすなわち、山田さんの姿をみた最後の場所となる。これが山田さんとの一回目の出会いと別れであった。

 あのツアーから一年ほどが経過し、二回目の出会いは突然であった。2009年9月10日、twitterに山田さんがサインインされたのだ。すぐにフォローし、ネット上で山田さんの声をみることになる。USTによる映像実況のチャットで遺作となった、段ボール茶室の制作中継で制作目的や手法についてチャットし、あの経歴詐称の問題でもやりとりもした。だが、もうその時点で3ヶ月しか残されていなかった。二回目は前触れもなくやってきて、突然永遠に去ったという実感しか残っていない。山陰ツアーで話ができなかったぶん、少しずつ言葉を重ねていこうと思っていた矢先のことであり、今この原稿を書いている12月25日現在でもとても悔しいという言葉以外見つけることができないままでいる。あまりにも話す機会が少なすぎたから。山田さんがわたしに向かって筆談をされる姿が失われた。その欠落したかにみえるイメージは、しかし、多くの人が筆談する姿をみてきたわたしの経験と混じり合い、「山田幸司さんの筆談」として新しく想起されるのかもしれない。そんなことを時々思います。
山田さん、さようなら。

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