六本木クロッシング2016を訪問する。オープニングに伺って以来、しばらく見る余裕がなかったが、終了間際になって訪れる。
やや長いエレベーターをあがりながら考える。わたしは、どんなふうにして、美術と向かい合っているのだろう、と。
今のところの答えとしては、「少なくとも22世紀の人物になりきってみること」であった。22世紀。もちろん、わたしはその世紀を生きることはできない。まだ訪れていないその時間はおそらく高度な医学を根底にした身体が成り立っていて、それは危うい倫理も伴っているだろう。そんな時代のひととして見てみたい。なぜか。あらゆるものを忘却したいからである。先の時代には、テレビやプロジェクター、スクリーンすら存在しない時代で、これらの物の名詞すら失われているであろう。そんなことを冒頭に展示されている作品から思う。また、この展覧会に参加している作家たちに共通点が1つあるとすれば、いずれも存命しており、今の医学的視点からすれば、21世紀中には亡くなっているであろう。つまり、わたしはかれらの死後の世界からきているのだ。そういう意味で、あらゆるものを忘却しておきたい。培ってきた知識や身体規範が通用しない、何よりも、わたしの耳が不自由だというけっして剥がすことのできないラベルのことを忘れていたい。そうすることによって、はじめて自分のことを客観化できるようにおもえる(これは重要である)。そのつもりであらゆる作品に接しているのであった。
ひとりで会場を歩いていく。
志村信裕《見島牛》をみる。この作品は、光のパターン・・・いや、パターンなどと言いたくない。光の集合にみえる。わたしたちの身体、まわりのものは細胞できているけれど、それが光と転化したかのように思える。スタートとラストに出てくる、牛のフェード・インとアウト。この映像はスタート、強い光のなかから2匹がインしてくるところから始まる。牛の姿が見えづらくなりそうなほど風景の光が強く、目覚めたばかりの目で牛をみている。ラストではしばらく牛がカメラをじっと注意ぶかくみつめたのち、退場していく。これは、光とともに現れた牛が、スクリーンの外という、光の及ばないところ、もっといえば世界の外に消えていくさまに思えた。このような見え方は、志村さんの作品を貫徹するものなのかもしれない。わたしは黄金町やKAATでも志村さんの作品をみていて、ひとつのものが多くの光の集まりになっているのが感じられた。その集まりがあるのは、KAATでの展示がそうだが、天井から投影された台からこぼれおちては消えるグリップなどの映像のように、そのものが退場、世界からの消えていくありかたがあってこそなのだった。
《見島牛》は牛を飼っているであろう方と対話しているようで、その内容が日本語/英語字幕として表示されている。わたしの視点からいえば、それはフィールド・ワークにおけるインタビューであって、民俗学的に重要な証言となるだろう。けれども、その方は姿を見せないし、ただ、牛のふるまいや風景の背後としてそれがある。彼岸花や百合がクローズアップされるショットはどこか儚げで、花びらから光が分解していく直前の姿を保っている。わたしの母は百合が大好きなのだが、母がみたら喜ぶのではないか。母も当然、22世紀を生きることはない・・・。いつしかこの光もわたしも見られなくなる、そのときまでに何を達成できるか、できないのか。この映像が世界だとすれば、わたしはそこからどう退場していくか・・・。それに気付いた瞬間、22世紀から現実に引き戻されていていた。映像のおわりとともに。
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