身体を光で切り刻む — 宇佐美圭司の芸術
7月2日、雨の日。東京大学駒場博物館の「宇佐美圭司 よみがえる画家」を訪問する。
わたしは東大の史料編纂所や明治新聞雑誌文庫でリサーチをして昼食を食べるときに食堂を利用することがときどきあった。そこに宇佐美の《きずな》が置かれていた。一見したところ、絵画というよりは一種のダイアグラムのようにみえた。それは、わたしが建築学を専攻していてダイアグラムを多く見ているのと、片隅にシルエットの説明がつけられていたからだろう。けれども、食堂は人通りも慌ただしく、あまりゆっくり見ている時間はあまりなかった。そうしているうちに、それは撤去された。撤去されてしまわなければ、こうした今回の企画もまた無かったにちがいない。このことはこの厚い雲のようにわたしの気持ちを曇らせている。
駒場博物館に入ると、宇佐美展のポスターが置かれていたので1部いただく。失われた《きずな》の再現画像がメインビジュアルなので、できればいただいた方が良い。初期から晩年までを厳選し、構成された展示をみていくと、身体障害について考えるときに示唆深いものがある(わたし自身の視点がそれに依っているという点も自覚しているが)。
なぜなら、「身体障害」はその人の身体に在るのではなくて、大衆の認識、メディアといってもよいだろう、その中で形成されている身体だからだ。障害学では「社会モデル」という身体障害の捉え方があるが、それに近い考え方だ。
宇佐美の芸術を通してみることで、それがよくわかるように思う。補助線として、ふたつの視点を提示してみたい。ひとつは、プリベンション(予防装置)ということばを使っていることだ。それと、身体をなぞる輪郭線を使ってマスキングしたことだ。プリベンションについて、宇佐美は「芸術家の消滅」でこう書いている。
「プリベンション(予防装置)の概念を、障害物であると同時に、それと相反する、導入するとか、誘導するとかの意味を持った、克服されるよう計画された障害装置、という両義性において使用したいと思う」