加納昭子さんが亡くなった。わたしが京都盲唖院の研究をはじめようと決めた頃に出会った人で、加納さんがいなければ、わたしは博士論文を出すことはできず、また今こうして歴史家の末席を汚してもいない。わたしという人物を形成するにあたってとても重要な人だった。
加納さんについて書くには、2007年1月に立命館で開かれたアラン・コルバンの連続講義に触れる必要があるだろう。この講義は学内のみだったのだが、ぜひ受講したいとお願いをして対応してくださったのが立岩真也先生と渡辺公三先生だった。渡辺先生は早くに亡くなり、立岩先生も少し前に鬼籍に入られてしまった。この講義では、コルバンのフランス語を日本語音声に通訳したものを字幕にする方法で参加したのだった。その時にフランス語と日本語間の通訳をされていたの方が4人いらっしゃって、うち一人が加納さんの娘さんだった。飲み会で初めてお話をしたことを覚えている。後年、ジナ・ウェイガンの『盲人の歴史』を翻訳されたときは「あなたのために訳したのですよ」といわれ、大変恐縮したものだ(2019年、ジナにも初めてお会いすることができた。このことはまた書くこともあるだろう)。
そのあと、2007年の3月23日に京都府立盲学校の資料室を訪問し、岸博実先生に初めてお会いしている。その帰路でいろいろと考え、当時進めている研究を後回しにして京都盲唖院で博士論文を書くと決めた(本来、博論というのは入学時点でテーマを決めておくべきで、こういうことをしてはいけない)。そのときに泊まっていたのが加納さんの家だった。というのも、恥ずかしい話だがお金がなく、京都に知り合いもいなかったからだ。そのことを娘さんに相談すると下鴨の家に泊まったらと勧めてくださり、そこでお母さまにに初めてお会いした。くせっ毛の小柄な女性という点で、わたしの母によく似ている。金沢大学の医学部を卒業した医師で、京都大で博士号を取得されている。同じく医師の夫が前年に亡くなられた直後だった。したがってお母さまにとって、わたしは夫とすれ違うように出てきた人だろう。
下鴨の家は、小さな門があって奥に行くと引戸の玄関があった。2階にはお子さんがかつて住まわれていた部屋があり、誰も使っていないからということでそこを部屋にして、朝と夕食をいただいた。娘さんはお仕事でほとんどいらっしゃらなかった。下鴨の家をお母さまとわたしは「加納旅館」と呼んだ。3月以降も、史料が所蔵されている京都府立盲学校と聾学校など史料を所蔵している機関まで足を運ぶ必要があり、この旅館から盲唖院の史料を見る、ノートをとる、見る、ノートを取る、そのために何度も京都に通った。それは3年間、2009年あたりの博論提出直前まで続いた。あの家は、そのはじまりとなる拠点だったのだ。
加納さんとお話しをするのは主に夕食の時間だった。圧力鍋でおいしいカレーや肉じゃがをいただき、食事しながらいろいろと筆談で話し合った。とてもお元気だった。丹波に生まれ、実家では蚕を育てていたのだが、蚕がうねうね動くのが苦手だったと話されていた。夫が早くに亡くなられたことについて、短歌にされ、紺色の簡素な装丁の自費出版の歌集も1部いただいた。夫が研究に使われていた部屋を拝見したり、過去のことをお話しされるのをときどき伺った。予定が合わずに加納旅館に泊まれなかったときは、市内のホテルの宿泊割引券をいただいた。
わたしが博論を提出した前後にはお母さまが病院に再就職され、お忙しくなられた。わたしだけでなく、娘さんの知人もよく加納旅館に泊まっていたようだ。そのなか一度、ひさしぶりに泊まる機会もあったのだが、当時すでにホテルをとってしまっていてお断りしたことがあった。数年して、下鴨の家を引き払われて京都市内のマンションに移られたとうかがい、お会いすることがなくなっていった。その頃だろう、河原町のホテルのレストランで娘さんと3人でランチを一緒にしたのが最後になった。博論を提出できたことの御礼や最近のこと、研究しようと思っていることを話していると、一言こういわれた。
「木下さん、あなたの業績はちゃんと一覧にしてまとめておきなさい」
それ以来、わたしはたとえどんな小さなものであってもリサーチマップでまとめるようにしている。博論を提出することができ、自分がどうにかこの世にいるのは下鴨の加納旅館と加納さんの教えがあったからにほかならない。もう一度、お話ししたかったと思うと残念でならないが、盲唖院の研究を続けることが加納さんへ報いる道筋だろう。