先日、ソクーロフの「ファウスト」を鑑賞。一言でいうと、見るべき映画ですね。以下、ネタバレを含みます。上映されてすぐわかるのだけれど、画面のアスペクト比が変わっている。ほとんど正方形になっている。タイトルは「ファウスト」というけれども、ソクーロフ独自の解釈が入っていて、ゲーテのそれとは全く違うものに仕上がっていて、むしろ「ソクーロフ版ファウスト」というべきだろう。
中条さんが全体のレヴューをされている。話の構成はゲーテを下敷きにしているけれども、物語は大きく異なっている。ファウストがお金に困り、マウリツィウスにお金を借りようとするところから物語が大きく振れ始める。時代設定がはっきりせず、銃をもった兵士が登場することから近代的でもあるのだが、鎧を着るシーンやホムンクルスという概念も中世のようで、近代以前までの時代が一気にフィルムに露出されているかのようだ。
とくに大きな違いが、メフィストフェレスがマウリツィウス・ミュラーという人物に変わっている点だろうか。人という設定だけれど、毒ニンジンを飲み干しても平気でいたりと当初から人とは思えない雰囲気を強く出している。ほんと、メフィストそのもののようにわたしは見ていた。演じているアントン・アダシンスキーはその身ぶりが奇怪で、左右非対称で歩いたりするんだよね。それに教会のシーンで周りをきょろきょろしつつマリア像に接吻したりとこのメフィストフェレスはちょっと病みつきになりそう。
マルガレーテ役のイゾルダ・ディシャウクはよく見てみれば、ドラマ”Borgia”でルクレツィア・ボルジアを演じているのだから、ある意味正反対の役柄かもしれない。そのマルガレーテに横恋慕しようとするのがファウストの知人・ワーグナー。彼がマルガレーテにこっそりとホムンクルス(人工人間)を見せるシーンがある。それはゲーテのには無いし、ホムンクルスは何もしゃべらないところも違う。製法も医学史のと違うように思われ、アスパラガス、タンポポ、ハイエナの肝臓を混ぜ合わせて作り出すという。ワーグナーが瓶を落としてしまってホムンクルスが死んでしまうのだが、ホムンクルスをなでてその最期をみとるワーグナーの身ぶりをみると、現代におけるiPS細胞技術をめぐる物語をどことなく皮肉っているかのように、あるいは仄めかしているかのように思われる。
こうしてみるだけでも、ゲーテのファウストの忠実な再現ではないことがすぐにわかるだろう。だが、それでも見るべきだと思うのは映像表現の美しさがハンパではなかったからだ。
例えば、マウリツィウスとファウストがマルガレーテたちのいる洗濯場に向かう、森のなかではカメラが上にのびて二人の顔が歪んだかのようになり、さらにはエメラルドのようなエフェクトがかかるし、マルガレーテがファウストのもとを訪れるシーンで二人のあいだに一瞬静止した時間が流れているところは、金で仕上げられた祭壇画のような映像になっていて、夢のなかで映像をみている錯覚が強い。教会のシーンも妙にホワイトバランスを強くしていて、清潔感を強調しているかのよう。ああいう白塗りの教会ってちょっと見かけないですね。このような色やレンズを微妙に狂わせているようなシーンが連続していると、映像のなかから視力の基準や重力感が失われ、わたしはジェットコースターに乗ったあとのような自分の身体がいかに曖昧なものかと思わせられた。だから、これは映画館で見るべきだと思う。
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