田中幹人、標葉隆馬、丸山紀一朗『災害弱者と情報弱者: 3・11後、何が見過ごされたのか』を読みました。
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東日本大震災において、問題になったことはほんとうにたくさんありますが、そのうち重要なこととして、災害における弱者とは何か、そして、情報弱者とはなにかいうことにあります。
目次は以下のようになります。
序章:おびただしい情報とどう向き合うか
情報の洪水のなかで/本書の視点
第1章:災害弱者‐3.11被害とその背景にある社会
第2章:情報弱者‐震災をめぐる情報の格差
第3章:震災後3カ月間の情報多様性
終章:「私たちが持つべき視点」の獲得に向けて
詳しい見出しは共著者である、標葉さんのブログに掲載されていますので、そちらをご覧いただくとしましょう。少しぐぐってみると、この本に関するレビューがそれなりに、いくつか出ていますので、わたしは全体的なレビューをするよりも、わたしが聾者であるということに引きつけてレビューするほうがいいでしょう。そうすることで田中さん、標葉さん、丸山さんにお返ししてみたいと思います。
ちなみに、これは共著者の丸山さんの修士論文の一部を使っているそうです(本人のツイートより)。論文の一部/全体であれ、努力の結果がこのような形で広い目に出ることは望ましいことです。
さて、聾者がこの本を読んだとき、何を感じたのかについて述べるとき、これは聾者全体の意見をわたしが代弁するものではなく、一個人の聾者が感じたこと、と了解していただきたいと思います。
まず注意しなければならないこととして、この本のテーマからして、わたしが聾者であることから聾者や盲人はどのように取り上げられるのだろうと気になる部分でありますが、そういう言及はまったくされていません。著者がどのように考えているのかはまったくわかりませんが、これは批判というよりも、別の視点なのでしょう。すなわち障害者が災害弱者全体を代表するという視点ではないし(むしろ、もっと大きな視点です)、かといって障害における情報弱者というともう少し丁寧な議論が必要になるということです。ここではあくまでも、広い、グランドデザインというか、全体像を少しでもみようとしているところに主眼に置かれているようです。とはいえ、収入は少ないかもしれないけれどもふつうに暮らしてきた人たちがそういう立場になってしまうということの恐怖感は感じられます。
まず、タイトルについてですが、「災害弱者」「情報弱者」という言葉が使われています。これはそのまま1章と2章のタイトルになっています。
1章の「災害弱者」は自治体の経済状況と第一次産業構造によって、災害の状況が変容していることが指摘されているところが大きなポイントです。この産業構造は貧困と高齢化がすでに指摘されているといいます。
著者は主に政府や県が出した統計値をソースに分析しているのですが、これによると比較的裕福な自治体は被害も少ないとし、貧しい自治体は被害も大きいとしています(むろん、そう単純には言い切れないことは著者も指摘しています)。たとえば、海と山に囲まれて暮らしている地域など地理学的な要素も大きくからむはずで、著者もそのように指摘します。もっと言うならば、貧困に関して把握するために、著者が指摘した地域についての歴史的分析・考察が必要で今後の史学の研究によって明らかにされなければいけないでしょう。
ここで少し工夫が欲しかったのは、42〜52頁の図1−4〜9における図表で、住宅被害率、死亡率、一人当たりの所得の図表です。これら自体が著者の主張を支えるコアになっていて、それ自体とてもおもしろいのですが、地理を考慮した図表にできないかと思いました。つまり、東北の地図をメインにこれらの分析結果を反映させることで、著者らが指摘する、地理と災害弱者の関係についてのイメージも浮上するのではなかったでしょうか。
それにしても、この表をみると、陸前高田市の被害が大きいことがよくわかります(陸前高田市において、障害者の被災状況はどうなっているのだろう?)
たとえば、茨城から青森といった東北の東側の沿岸部において、障害者の死亡率が2倍であるという統計が算出されており、「災害弱者」「情報弱者」という言葉からして看過できない問題だと思います。その点はこの本を起点にしてふくらませることもできるだろうと思います。わたしは内閣府における高齢者の暮らし方に関する調査をもとに、高齢の聾者がどのように暮らしているのかを調査したことがありますが、そのときに顕著だったのは、彼らの収入はかなり変動値が大きい、という結果を得たことでした。
現在すでに津波によってインフラが大きく失われてしまった現在、かつての様子にどのように迫るかという問題があります。まずは国勢調査など統計学的な処理も必要になるのでしょうけれども、たとえば、建築界隈でいえば、失われた街というプロジェクトがあり、このような「記憶」を残すプロジェクトとの連動性も必要なことになるかもしれません。
次に2章「情報弱者」についてです。著者によれば、情報をめぐる格差は、2つあるといいます(70頁)。
1、個々人の情報入手/利用環境の状況に付随する情報環境の格差
2、メディアにおける取り上げられる/関心を持たれる情報・トピックスをめぐる格差
この章では、まず、朝日新聞において、何がキーワードになっていたかということが分析されています。これをみると、震災直後には地震の話題が重心であったのですが、徐々に原発の話題にシフトチェンジしているといいます。84頁の図2−3をみると、4月に入って原発の話題が地震を逆転するように見受けられます。これはわたしの感覚からみても同感ですが、ひとつ重要なのは紙面のデザインではないでしょうか。わたしは朝日新聞の3月11日から4月にいたるまでのすべての紙面を収集して所有していますが、見出しのデザインが徐々に変わっていく(太いフォントが少しずつ消えていく)ようにみえます。このような紙面のレイアウトやデザインからみた検討も必要かもしれません。どんな分析が必要なのかすぐには思いつかないけれども。
86頁の分析はすごくおもしろい。
これは、朝日新聞におけるキーワードネットワークというもので、地震直後と4月の様子を比較すると情報がひとつのところに固まっているようなイメージから、少しずつ区分けされて整理されていることがわかるのですが、すごく興味深いです。どうやって処理したのか、ぜひ詳しく知りたいです。
3章「震災後3カ月間の情報多様性」についてです。
情報をどのように獲得し、選択するかという視点から、新聞、ヤフートピックス、ブログ登壇サイト、Togetter、Twitterを対象にその影響関係をCDIという考え方で分析している。ここで注意しなければならないのは、CDIとは何かを読者がまず理解しないと図3−7〜10の意図をうまく読み取ることができないという点。わたしはあまりよく理解できなかった。注釈の42に説明がされているが、ここではCDIがキモなのだとおもうので、説明に少し心を砕いてもよかったとおもう。どのような処理をするのか、方法をダイアグラムで呈示してもよかったのではないかと思われる。
それから、情報弱者とは一体どういうものかというと、多様な情報のチャンネルをもたずに適切に処理をすることができないひとたちのことなのだろうか、情報 — つまり日本語で読まれ、日本語で書かれているものをまず読解できることが前提としているように見受けられました。そうですよね、日本人ですから日本語を理解するということが暗黙の了解とされているようにみえます。
しかし、聾者はそのすべてが十分な日本語に関するリテラシーを有するわけではないし、手話が必要なひとたちが多数であるかもしれないことを考慮する必要があります。東北の一地方にすむ聾者であればもっと深刻かもしれません。果たして彼らにとってこのような状態において、どのように行動したのか、検証が必要になるところです(盲人もすべての盲人が日本語を判読できるわけでもないし、点字を使用するわけでもない)。
唯一の公的な手話ニュースである、NHK手話ニュースとインターネット上での手話や聾に関するニュースDNNで把握されようとしているのかもしれないし、枝野官房長官(当時)の発表に手話通訳がついたのは、このときがはじめてでした。それらを聾者がどのように受け止めたのかも検証が必要です。実際、聾者を対象にした研究調査はまだなされていないのではないでしょうか。彼らの声もたぶんにまだ語られておらず、今後の課題であるように思われます。
2012年 9月 16日(日) 18時07分23秒
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