アルノー・デプレシャン「魂を救え!」

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わたしが学生時代、梅本洋一先生の講義にレポートを出していた。ほとんどはダメだったけれど、このレポートに限っては「最後のところが好きだ!」と仰っていた。
以下、そのレポートの全文。今読み返すと直したいところがあって恥ずかしいけれども、先生のことをちょっと思い出すために。

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公園をバックにフィルムの端からフォルクスウァーゲンがゆっくりと通り過ぎていく冒頭。デプレシャンのフィルムは、静かに幕をあげる。嵐の前のようにとても、穏やかだ。ヤルタ会談裏話でチャーチルの演技でペンを取り出したとたん、顔、手、写真、、、つまり、「肉体」の諸部分を切り取った映像がフラッシュのようにでてくる。切り抜かれた映像が、いきなりからっ風を巻き起こして少し目まいがした。この映画は、91年という暗い影のなかで制作されたもので、ドイツからフランスにやってきた法医学インターンの荷物に首が入れ込まれ、生と死、過去と未来、男と女の対比を織り交ぜたフィルムである。主演はエマニュエル・サランジェとブリュノ・トデスキーニ。

ドイツからフランスへ国境を越える外交官と法医学生。共産主義と民主主義、過去から未来を扱う外交と、未来から過去をみる法医学のように国境と職業の対比がここであらわれているのが特徴的だ。
粗暴な荷物検査でマチアス(サランジェ)は「おまえの人生は靴とパンツだけ」といわれ、列車に吹き込む風で涙をぬぐう。パリのホテルについたマチアスは時間をかけて見覚えのない物体の正体を暴いた。生者と死者の間の感触を確かめるように、遠さがったり近づいたりしている。

姉から呼ばれたパーティの帰り、家に誘われるが、首にとりつかれていて行けない。ホテルのロビーで部屋のキーを受け取るとき、マチアスの姿が柱に隠れて見えない。ここではマチアスの姿が意図的に消されている。出かけるときまで見ていた首ーつまり、死者の姿がクローズアップされていて、生者の姿が見えなくなるイメージを与えてくれる。「つきまとうな」と首に向かってほえるマチアスは、自分もまた亡霊なのだ。姉にとって。やがて首を携帯し、講義で死体解剖する時間は「死体解剖医ヤーノシュ」(ロバート・エイドリアン・ペヨ監督)のひやりとするフィルムを思い出す。首の正体を思いながら、首を使う声楽の練習をのぞきこむマチアスには、血がかよっている首、かよっていない首がとりまいている。さながら、首が浮遊しているのがフィルムの奥にみえる。なんとも怪談ではないか。首の真実を知ろうと意識しはじめたマチアスのところに、ジャン=ジャック、ヴァランスを中心とする外務省関係者が1974年国境付近で撮影された映像をみせたとき、急に国家という人間の下にあるとほうもなく不明瞭なものが起き上がってきて、フィルムが政治色に少しずつ染まっていくのを感じるのだ。そして、境界線ー国境の傷跡をたどろうとするブライシャーと首に留められた傷跡を開け、頭の中をのぞきこみはじめたばかりのマチアスがシンクロしあう。
歯の治療跡や頭皮の状況などからマチアスが過去に近づいていくにつれ、マチアスの部屋を訪問したりとウィリアムの動きが激しくなってくる。首を隠そうとするマチアスが駅のロッカーをあけたとき、扉の裏に淡く反射する鏡がウィリアムの姿を映す。はっきりは映していない、なんとも不吉なニュアンスをただよわせている。このように、フィルムで二人を表現するさい、一人が鏡に映し出されることがあった。マチアスと姉、法医学者と声楽家の卵同士であり、法医学は死体を扱うが、声楽は肉体を扱うという対比が生まれる。マチアスとウィリアムの対比は地球儀を風呂場で遊ぶものと、悩むものとして。それは重いとき、楽しむか楽しまないかという差。ブライシャーとマチアスは国境と肉体の境界線をたどるものとして。ベンヤミンによれば「鏡は対比的な存在を同時にうつしだすためにある」という。そのための鏡がフィルムに使われている。マチアスを鏡に映せば、ウィリアムになるのだ。
だから、ウィリアムを射殺した時点で、マチアスは自分自身を映せなくなってしまった。誰も訪れない病室の中で生きつづけるしかないのだろう。

木下知威


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