誰かを抱いた時。
子供のころ、父や母に抱きついた時。愛おしい人に抱きついた時。
胸や背中が膨張を繰り返して呼吸しているのを覚えている。
角田さんの作品はそんな記憶を喚起させるものだった。スタッフに促されて手で木箱にそっと触れたり、スピーカーに触れるほど耳を近づけると振動があった。
角田さんはエアーマイクを使ってこめかみで録音をしている。外の音やその人の音なのかわからないけれども渾然一体となった振動がわたしの中にあった。目を閉じていると禅のように、内省というか、自分自身そのものにベクトルが向き始める。
そのときに考えたのは、わたしは何も聞いていなかったのだということであった。わたしは耳が聞こえないうえに、何も聞いていなかったのである。この国において身体障害を持つということは、国家が規定した基準に則って規定されること — 身体障害福祉法に他ならないのであって、その法に従ってさまざまな福祉厚生を受けることができる。逆に言えば、耳が聞こえないということはわたしが決めたことなのではないし、聞くことを放棄することが許されることすらあるのであった。例えば、高校のときになるが、英語の模試でリスニング問題が出た時に担当の先生が「耳が聞こえないのね、じゃあ聞かなくても大丈夫だよ」といった配慮がそうであった。このようなことを繰り返していると、耳が聞こえないという事実だけでなく、聞くことさえも放棄してしまう。聞こえないから、聞かなくたっていいんだ・・・。政治的に、医学的に規定された聾者の身体が陥穽におちいっていることと、その穴から這い上がることの可能性を角田さんの作品は示唆している。
角田さんの展示にはスピーカーが添えられているだけでなく、録音風景を撮影したらしい写真も展示されている。その写真には伊東さんの蛍光灯がきらめいていた。実はわたしは前から伊東さんのちょっとしたファンで、彼の演奏を見たこともあった。点滅する蛍光灯をギターのように光を音に変えながら演奏する姿がとんでもなくかっこよかったことを覚えている。でも同時に光が痙攣しているのを見ると、自分の身体も同期して動けなくなる。
蛍光灯といえば、前回の相川勝・小沢裕子で相川さんが表現されたあの瞬きとともに点滅する空間でも使われていたけれども、今回は訪問者が瞬きをコントロールできるという違いがある。それ以上に、蛍光灯と美術の関係を考えると当初はスティーヴン・アントナコスのように「光る線」としての蛍光灯を捉えた表現がなされてきたのだとすれば、そこから「点滅する線」に主眼が置かれているように感じられた。しかも、蛍光灯はその配置によって光を均等化して空間全体を照らすることもできる。それが相川さんの表現であったわけだけれども。光線としての蛍光灯から、点滅する蛍光灯というコンテクストが成立しているのなら、そのあいだにあるはずの速度・時間以外に何をわたしたちは見出しうるのだろうか。
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