20220422

4月22日。昨日、夜遅くにスーパーマーケットに寄ったら、1kgほどのいちごが800円だった。いちごジャムにするのを思いついて買う。買い物リストにはなく、買う予定はなかったものだ。なぜ買ったかというと、荷台のうえに陳列されている赤々しい塊のなかからいちごが知覚され、不揃いな形と、量がいちごジャムという想像と結びついたからである。その想像というのは、いちごジャムからいちごを認識することと、いちごからいちごジャムを認識するという運動である。
真っ赤ないちごを手にしてヘタを取ったり切ったりしていると、従姉妹のことが思い出されてくる。わたしの父には妹がおり、わたしのおばにあたる。おばの子どもは姉妹。何かの折に家に遊びに行ったときに姉がヨーグルトにいちごを入れるのを好むのに対し、妹はいちごが嫌いで、ヨーグルトにそれを入れたがらないのだったことを思い出した。それは、いちごを加工するという、いちごを知覚し続ける時間が連続していなければ出てこなかったことだ。昨日書いた雨の話題もそうだが、「もの」がわたしの知覚と連動しつづけることで記憶が引き出されてくるのかもしれない。
ある意味で、そのことと逆行するのが買い物リストなのではないかと思う。買いたいものの名前の羅列である。スーパーで買い物をするときに、買い物リストを作成しておくと忘れずにすむだろうけれども、それはスーパーで作成されるものではなくて、家かどこか別の場所で作成される。言いかえると、それはあるものを切らしているという欠存を探りながら、あれが欲しい、これが欲しいといった欲望をロールプレイしながら作られるのが買い物リストだ。しかしながら、買い物リストだけで買い物はできない。なぜなら、スーパーには買い物リスト以上のものがあるからだ。それらのおびただしいものから買い物リストに該当するものを選別していくうちに、それらの「もの」(いちご)を通じて、いちごジャムという認識に導かれていく。想像しなかったことだ。買い物とはそういう、知覚のハプニングが期待される場所であろう。


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