平成の思い出 ー 恋と嘲笑

今日で元号としての平成が終わる。
わたしにとって、ひとつの元号を生きるというのは初めてのことだ。

けれども、昭和が終わったときのあのどんよりした雰囲気を子供心に刻んでいる経験があるためか、あまり歓喜しているような気持ちではない。何より災害の多い時代だった。平成において思い出は山のようにあって、思い出そうとすれば、箱から無数の思い出たちが飛び出して溢れかえってしまうようで収拾がつかないというのが正直なところだ。

そんな中、ひとつだけ思い出を記すなら「恋と嘲笑」である。

話は高校3年生の時に遡る。進学を控えていてクラスは緊張感のある日々だったのだけれども、クラスにはひとり、好きな子がいた。ロングヘアの活発な子で笑うと唇のかたちがスマートで綺麗だった。その唇が好きだった。

同じクラスになるまでは存在を知らなかったので、おそらく春になってすぐに好きになったんだと思う。けれども話をする機会はまったくなく、そうこうしているうちに、秋学期が始まった。秋学期になると、もう受験モードで部活も引退しているので、みんな家に帰るのが早かった。 Continue Reading →

ブルー・カーペットと六畳間

新年、あけましておめでとうございます。今年もライブラリー・ラビリンスをよろしくお願いします。
 
年末年始、ちょっとしたことでかつて住んでいた家に行く機会があった。いまは空家になっている。ブルーのカーペットが印象的なリビング。奥の部屋は6畳で、わたしの部屋だった。
 
 
障子を閉めると、しっとりとした光がはいってくる。
そう、わたしは高校までをここで過ごしたのだった。
6畳の部屋に座り込んで寝転ぶと、しっくりくるところから、わたしの空間感覚はいまも6畳が基本になっているようだ。寝転ぶと、思い出が蘇ってくる。場と記憶の相関ということが古代ギリシャの記憶術でいわれていることをあらためて思い起こす。ここで思いっきり遊んだし、たくさんの宿題をやった。
 
ブルー・カーペット。これを海に見立てて泳いでみたり・・・。
 
思い出しかけたときに我にかえり、すぐに起き上がる。みずからの時間を懐古するのはまだ早いことに気づいたのだった。

背中の思い出 あるいは、思い出の背中 — 村瀬恭子

村瀬恭子《In The Morning》
(1998、村瀬恭子展にて(ギャラリーαM))

 

ときおり射抜かれるような展覧会に出会うことがある。それはしばしば展示室に入った瞬間に決定される。ギャラリーαMにて「絵と、  vol.3 村瀬恭子」はそんな時間だった。

村瀬はグラファイト、色鉛筆、油彩をミックスしながら描いている。それらはざらっとした感触のコットン・キャンバスもしくは紙のうえで表現しているが、薄く伸ばしていて、じわじわとお互い侵食しているような描き方は琳派の人たちを思わせるところがある。
また、これらのメディウムの使い分けによって、奥行きや描かれていないはずの色が描かれている。わたしたちが子供の頃から持っている様々な空想の物語のイメージを仮託する容器たりえている。

何よりも語らなければならないのはこの絵だろう。

《In The Morning》(1998)だ。 Continue Reading →

長谷川利行と東京市養育院

長谷川は人生の最後で倒れ、行病人として東京市養育院に入院した。
胃がんだったという。養育院から矢野文夫に手紙を出し、矢野はすぐに駆けつける。
以下、矢野がまとめた『長谷川利行全文集』の書翰の部分に収録されている回想。

偶発の組成 — 地主麻衣子「欲望の音」

Art Center Ongoing「53丁目のシルバーファクトリー」にて

HAGIWARA PROJECTSにて「欲望の音」スクリーニングを見る。上映が終わった時に思ったのは、ようやく地主麻衣子の作品に浸かったような気がする、言い換えると地主の作品がようやく身体に沈殿していくことが感じられるということだった。わたしが地主の作品を初めて見たのは黄金町バザール2014だと記憶している。

さて、「欲望の音」とはなんだろうか。作家本人が一部をVimeoにアップロードしているものはこちら。 Continue Reading →

思い出の触覚 − 椋本真理子「in the park」

国分寺のswitchpointへ。

椋本真理子の作品には、ニュートラル、非場所性、人工、といった言葉を思い浮かべるだろう。わたしもその一人だけれど、わたしが考えるのは水である。まず、水は椋本の彫刻において登場する回数が多い。また、椋本の作品の中で《private pool》という作品に一番感銘を受けているからというのもあろう。プールの表面を象ったような作品でいて、彫刻としてのプールサイドは存在しておらず、水そのものが現前している。

なぜ、水なのか。ロレンス『黙示録論』では、古代人の意識として、触れるものはテオスであるとしている。引用しよう。

「今日の吾々には、あの古代ギリシャ人たちが神、すなわちテオスという言葉によって何を意味していたか、ほとんど測り知ることは出来ない。万物ことごとくがテオスであった。(・・・)ある瞬間、なにかがこころを打ってきたとする、そうすればそれが何でも神となるのだ。もしそれが湖沼の水であるとき、その湛々たる湖沼が深くこころを打ってこよう、そうしたらそれが神となるのだ。」 Continue Reading →

蟹を埋める

2018年3月16日。夜に買ったアサリを砂出しをするべく、塩水に浸す。

2018年3月17日。朝、アサリの砂が出ていることを確認し、洗ってパックにつめると網の中に丸いものが引っかかっていた。

白く、半透明の蟹だった。

わたしはそれを手に取るとモゴモゴと弱々しく動いた。とりあえず生魚の切れ端を与えたけれども食べようとしない。 Continue Reading →

木を見るときに

“You cannot judge a tree by seeing it from one side only – As you go round or away from it – it may overcome you with its mass of glowing scarlet or yellow light. You need to stand where the greatest no of leaves will transmit or reflect to you most favorably…”

10月になって決まって思い出すフレーズに、ヘンリー・ダヴィッド・ソローの日記にかいてある一文がある。これは1860年10月9日の日記に書いてあって、ソローの日記をアーカイヴとして公開しているウェブサイトで知った(カリフォルニア大学サンタバーバラ校の図書館が公開している)。

ソローはフェア・ヘヴン湖をボートで漕いでいるときにこの風景に出会ったらしい。ソローは木をone side、ひとつの方向から見ただけで決めてはいけないと言っていて、木というのは周りを歩き回ったり、距離をとることでその見方を変えてみるということ。その後に続く”You need to stand where the greatest…”のところが重要で、自分の視点に立ってみるということ。そのとき、もしかしたら眩しいスカーレット、あるいはイエローの光を見つけるかもしれない。これは研究において、史料を読むときに心においておくべき言葉だ。

画像としてアップしているのは、ソローの日記(1860年10月9日)の部分。これを見ると、右頁の上から6行目の”stand where the greatest no of leaves”のパートでtが4つ並ぶのだけど、それを走るように横線を引いているところはソローの気分がのっているようでメロディックだ。

いい言葉でしょう?

瑞々しさの基準

宮城県・多賀城市にて。

何かに対する判断基準として、それが瑞々しいかどうか、というのがある。

ある機関で史料調査したときにひょっこりと紛れていた資料と出会った。それは鳥山博志『死の島ラブアンからの生還』だった。とても薄い私家本で、元は潮書房「丸」別冊3号(太平洋戦争証言シリーズ、1986年)を製本したものらしい。この冊子の最後に、鳥山さんはこんなことをした、と年賀状の内容を紹介している。書かれたのはおそらく1980年代であろう。

紹介してみたい。

 

「(前略)昨今、戦争の本質をあいまいにする危険な風潮を感じはじめたからです。国の動きの中にも・・・

憲法第九条は、先の大戦で戦没した二百十万人の日本人が私たちに残した遺書です。私は生ける証言者として、この遺書を守り、故郷を遠く離れて、護国という名目のためにジャングルの土となった人びとの言いたかった訴えたかったことを、その本当の心を代わって語り伝えていきたいと思います。戦没者の鎮魂は、靖国にあるのではなく、戦争の実態を明らかにすることの中にあります。反戦反核の決意を新年のご挨拶といたします。鳥山博志」

 

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もぎとった果実のように、声を手渡す — 石牟礼道子

石牟礼道子『苦海浄土』『神々の村』『天の魚』を読了する。言わずと知れた、水俣を描いた三部作。

樹木から果実を取ったように、石牟礼が取る声が生(キ)のまま。それは文字という濾過を介していない。紙の上に、声じたいとして留まっている。人の声を一度すら聞いたことがないわたしにとって、その声は石牟礼が書き取るというよりは、石牟礼の手から絡め取られた声を手渡しされたように思える。

声の手渡し!

それが可能なのは、ひとつは方言なのだろう。その土地にまみれた口から出てくる言葉がある。標準語という極めて政治的な言語体系を逆行してやってくるからだ。 Continue Reading →

かろやかな人

危口さん。久しぶり。
 
昨日、京都の家に帰宅したあとに危口さんが亡くなったことを知った。今日がお通夜で明日はお葬式とのことで荼毘にふされ、新たな世界に行かれるまえに書いておきたい。
 
わたしは危口さんと3年前に知り合い、ときおりお会いしては立ち話をする関係だっ た。危口さんの本名は木口で、わたしと同じく姓に「木」がついていることもあって、木の話題もときおりあった。とくにわたしが家の立ち退きをうけたとき、 小さな庭にあった梅の木が切られることの納得できなさを最初に相談したのは危口さんだった。あのときは移植先への道を示してくれたことに感謝しているけれど、迷惑もかけてしまった。ごめんなさい。
 
悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』では危口さんがお父さんの横に立って、お父さんのプロフィールが書かれたボードを掲げて二人で頭を下げるシーンがある。そのとき 客席では笑っているひとがたくさんいたが、わたしはすこしも笑えなかった。なぜなら、葬儀のシーンにみえたからだった。
 
一般的に、葬儀の場では喪主が故人のことを紹介する時間が設けられている。『わが父、ジャコメッティ』では喪服を着ていないし、当の本人が横に立っている のだから葬儀のようには一見みえないけれど、危口さんに「お父さんのプロフィールを書いたボードを掲げるシーン、危口さんが喪主として父の葬儀をやっているよね。客席は笑っていたけど、わ たしはまったく笑えなかったよ。」と話すと、危口さんはニヤリと笑って「ご明察」と答えた。それなのに、明日はお父さんが危口さんの喪主を務めることになっている。
 
危口さん、そりゃあ無いよ。『わが父、ジャコメッティ』と逆じゃない?

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2016年

夢殿観音(明治時代・小川一眞撮影)

年末年始、帰省までの切符を受け取った瞬間、2016年の瀬を感じることになった。いつもは飛行機で帰省するのだけれど、今回は新幹線を利用した。深い意味はなく、たんに新幹線から流れる風景を見ながら作業をしたかったのだった。たいへんよく捗ったのでまた新幹線を利用してみたい。

さて。今年について。2016年は良い一年だった。全国に散逸している盲唖学校の史料を調査してきたが、ようやくボリュームとしてもクオリティーとしても一定のものを得ることができた。これまで、京都や東京しかみてこなかったので全国にどのように展開してきたのか、おぼろげながらつかめてきたのがこの年だといってよいだろう。 Continue Reading →

京都府立総合資料館と京都盲唖院

京都府立総合資料館の投書箱。
ときどきおもしろい投書がある。
一番笑えたのは「熊のプーさんは爬虫類ですか?」という質問。
答えは「質問の意味がわかりません」というものだった。

京都府立総合資料館。京都府民で知っているひとはどのくらいいるだろうか。京都の資料を取り扱う機関。わかりやすくいえば公文書館でありつつも貸出をしない図書館機能もあり、展示をする博物館機能もある、といえばいいだろうか。その京都府立総合資料館の新館がリニューアル・オープンするため、いまの建物が閉館になる。だからというわけではないのだけれども、2年前あたりからちょくちょく足を運ぶようにしていた。 Continue Reading →

歪んだ柱

広島。長崎。わたしは今年、原爆が落ちた街を訪れた。

いろいろと思うことはあるが、長崎の興福寺というお寺を訪れた時の話をしたい。ここは、実は長崎盲唖院の唯一の遺構が残されているお寺だ。桜馬場に新し い校舎が建てられる前、長崎聖堂で授業をしていた。その遺構がこのお寺にあるのだ。それをひととおり見学させていただいた。その後、美味しいお茶をいただ きながらお住職にお寺の歴史についてお話を伺っていた。お寺の雰囲気からわかるように、黄檗宗の寺院である(長崎と中国・西洋と盲唖教育というテーマもひ じょうに興味深いのだが)。

そのなかで、お住職はあれを見てごらん、と本堂の回廊を指さされた。そこには柱が建っている。

「柱が曲がっているのがわかりますか?」

「ええ、わかります。」

「あれは、原爆で倒れたんですよ」

えっ、と思った。というのはこの興福寺は長崎の市街地の南の方にあり、やや離れているのであったから。原爆による爆風が山を越え、市街地を走り抜けるとともに、建築をなぎ倒していった。

その瞬間、わたしの目にはある柱は、柱でなくなった。これは、まぎれもなく、原爆の永遠の、証言者なのだ。

倒されて曲がってしまった証言者は再び体を起こして、かつての場所から動くことなく建っている。これこそが重要であった。

盲人と自分を見つめる

momatの常設展に中村彝が描いたエロシェンコの肖像画がある。常設ではスタメン、登場する確率が高い絵画である(右)。その横が中村本人による自画像(左)。エロシェンコは沈思するような表情で佇んでいて、視線はこちらに向いていない(それこそが、盲人を描いた肖像画としての確固たる地位を占めているのだが)。一方、中村は口をやや意識的に結び、彼の目はこちらを向いている。顔の向きは反対で、二人はお互いにそっぽを向いているかのように配置されている。 Continue Reading →

刻まれる写真 — 東松照明の長崎

ちょうど、わたしは長崎で史料調査をしていた。わたしは全国の盲人・聾者の社会とコミュニティを盲唖学校を通じて研究しているが、それを長崎に求めにきたのであった。
時代としては明治・大正であって、原爆が落ちる前の長崎の姿をみようとしている。
そこから延々と広島で資料調査を行ったのち、時間のあいまをぬって広島市現代美術館の東松照明展に向かう。
広島平和記念資料館からのバス「めいぷるーぷ」に乗ると、丹下の建築のまえで子供たちがピースをしている。深刻そうな表情をしている子はおらず、楽しげに走り回っている。このような風景がずっと続くべきだ。

バスに揺られながら考える。広島で長崎の写真が展示されることについて、原爆という二文字は欠かせないことになっていることは本来ならあってはいけないことなのだが、それ以上にわたしは東松の死後、という時間を考える。写真家の死は、現在を生きている被写体にとっては二度と東松のファインダーにとらえられる瞬間はおとずれないことを意味している。そして、被写体やわたしにとっては新たな時間が流れることでもあった。だが同時にこうとも思う。「原爆が落ちなかったら東松は長崎でシャッターと切らなかったのではないか?」 Continue Reading →

道後温泉にて

長崎、宇和島、松山と調査が続いていたので、息抜きをしたく、道後温泉本館に。松山では有名な観光地でまあベタなところだが一度見ておきたかった。

せっかくなので霊の湯 二階席をとって入浴する。今回の史料調査にあたって楽なことは一度もなかった。それにかつての盲人や聾者が置かれていた社会状況。それを考えると耳が聞こえない身体をもって生まれてくるべきではなかったかもしれない。生まれ変われるなら、耳の聞こえる人として人生を送ってみたい。聞こえないということが、わたしの身体に重くのしかかっている。 Continue Reading →

ニカッと笑う小西信八

小西信八が笑っている写真は珍しい。盲唖学校での集合写真ではこのような表情は見せない。嬉しいことがあったのだろう。

犀星の初版本グラフ

資料を整理していた時に出てきたもの。金沢にある室生犀星記念館でもらったのだと思う。本の装丁と出版年をグラフにしたもの。これは記念館にも同様の展示がされ、壁一面に初版本が配置されている。参考写真はこちら。

面白いのは上に行くほど時代が新しく、下に行くほど時代が古いという「地層型年表」になっていることである。

断章 ー 出窓の先に

新居に越してもうすぐ一年になろうとしている。出窓からの風景を見ながらコーヒーを飲んだり、朝食をとるのが楽しいのがこの季節かもしれない。夏になると日差しが強いだろうから。写真は12月のものだが。

最近読んだもの。大阪の盲人が書いた文章で、子どものときに親に連れられて当時大阪盲唖院の院長だった古河太四郎を訪問したという短い回想を読んだ。それによれば、「ぼん、これが何かわかるか」とあるものに触れられたという。それは瓢箪で「瓢箪です」と答えると、おお、よくわかるな、と返されたことを覚えている、というもの。
古河のユーモラスな側面があった。そう思えるのは、わたしと古河が短い付き合いではなくなったということでもあるのだろう。

はじめて古河のことを知ったのは、わたしが講師をしていた手話サークルで教養講座をすることになり、手話の歴史を知りたいという声があがったことがきっかけ。ひとまず、障害児教育史の参考文献を調べ、古河のことを知った。あの時の感覚は、単に京都の一小学校の教師だった、手勢という方法で物と概念を教えようとした、という印象しかない。その継ぎ合わせの知識で手話サークルで説明をしたことを覚えているが、こんなの知識じゃない、絶対に。血にも肉にもならない。知識の本質は、その人が何をしたか、ではなくてその人が何を目指したかを見せてくれるものだから。それを見つけるには、古河の家族構成や学歴、職歴からみた生の体系に近づかなければならない。そうすることで知識は知識として、はじめて言葉としてこの体から語らせてくれる。わたし自身が語るのではなくて、わたしの体が語ってくれる。

古河の言葉がしてくる。

「ぼん、これが何かわかるか」

部屋と欅

用事があり、旧居に行かなければならなかった。

わたしがかつて住んでいた居室の様子をみると、窓のある部屋に切り倒された欅が横たえてあった。毎年、元気に枝を伸ばしては、わたしを悩ませていた欅であったが、こうして君は部屋にいる。

君は亡骸としてあり、どこかに連れ去られるのを待っている。

初めて君の大きさを知る。かつて自分がいた部屋でもあり、スケール感が身にしみているからこそであった。君はひとつの部屋を覆う存在であったか。

窓の脇で

先生。まだ先生の背中は遠いよ。

新宿三丁目の天丼屋にて

夜の8時過ぎ、新宿三丁目の天丼屋にて。客は誰もいない。おじいさんが一人で切り盛りしているようだ。仕込みをしていた。

「天丼ください」というとテキパキと準備をはじめる。古びた感じ、テレビもブラウン管。テレビを見ながら、何年やっていますか?と筆談で尋ねると「52年です。昭和38年9月5日に開店、わたしは26歳のとき。いまは78歳になります。」と丁寧な答え。

思わず、「どうして長く続けられるの?」とたたみかけると。 Continue Reading →

繋がらない男女 — 齋藤陽道×百瀬文

2014年9月13日、ギャラリーハシモトで齋藤×百瀬のイベントにて。何を行うのかは事前に告知されず、それゆえに見てみたかったのだけれど。

本来、この企画は19時に開場するとアナウンスされていたが、一日前になってギャラリーからメールで19時半から開場するということが伝えられた。こんな文面である。

各位

お世話になっております。
この度は「ことづけが見えない」関連イベントにご予約いただきありがとうござ
います。

明日のイベント開始時間ですが、準備の都合上
19:30~となりましたので、ご了承くださいませ。
イベント自体は、1時間程を予定しております。
受付は、10分前より開始いたします。

お席のご案内は、先着順とさせていただきますので
立ち見の可能性がありますこと、ご了承くださいませ。

狭いスペースの為、ご不便おかけすることもあるかと思いますが
どうぞ楽しみにいらしてくださいませ。お待ちしております。

ああ、そうなの、とその時は思っていた。 Continue Reading →

真実ほどまやかしのものがあるかしら? ― 武田陽介「Stay Gold」

武田陽介「Stay Gold」へ。
そもそもといえば、わたしがFacebookで武田陽介さんを武田雄介さんと勘違いしてしまったのが出会い。あのときはほんとうに武田さんに失礼なことをしてしまった。

ギャラリーに入ってすぐ、一番奥にきらめいている木漏れ日のような写真がみえる。脇には、街、天体、白熊の写真・・・。スタッフたちがパソコンを操作しているところを通り過ぎながら、これは夢か、現実だろうか。わたしは今まさに、何を認識しているのか。どこにいるのかと無意識に考えながら見ていく。日本語では「写真を見る」などと眼を使った動詞で表現してしまうけれども、武田さんの写真はその動詞がまったくふさわしくなかった。そうではなくて、武田さんが捉えた時間は、わたしの網膜にスティグマとして焼き付けていた。わたしは現実にいる。知覚上でも写真をみつめて、眼をサッと閉じると網膜に武田さんの光や残像が焼き付けられる。ゆっくり眼を開くと、その風景がみえて、でも、フレームがみえはじめるとそこはタカイシイ・ギャラリーであった(ちなみにエレベーターに乗るとき小山登美夫さんと居合わせた)。
あたりまえのことだよね。でも、そんなこと、他の写真で考えたことがなかった。米田知子さんのように、作家のメガネを通じて原稿を撮影している写真で、その光景のように思えてしまうことはあるけれど、でもそれは写真をみている主体(わたし)がいてこそ。武田さんの写真はそれが感じられない。気付けば、その現実そのものになっているように思えた。
写真と自分を仕切っているはずのガラス、あまり反射しない素材だったのだろうか。わたし、ベーコンがいうようにガラスのなかに自分を映して作品と同化するように遊んでいることがあるのだけど、武田さんの写真はまったくそういうことを思いつかさせてくれなかった。不思議だな。ロバート・ブラウニングが詩でうたった言葉が出てくる。

「真実ほどまやかしのものがあるかしら?」

思わず、カタログを求めてしまう。新井卓さん、横谷宣さんのように、入手が難しい材料があるという写真の現状に対して、かつての技法を研究しながら作品を作る人たちがいる。かれらの存在をかんがえると、武田さんはデジタル写真の技法をどのように捉えているのだろうか。そういう展覧会だった。

光と資料が混じるとき

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思い出すこと。

図書館で資料として明治の新聞を読んでいたら、不意に光が入ってきた。そのとき、新聞に夕陽がかかる。

明治の新聞に対しては、資料という視点をもっている。情報としての資料でしかない。それをみようとすると、所蔵館からはマイクロリールで見るように指定されることがほとんどである。というのも、薄い紙でとても破けやすく保存状態が良くないことが多いから。そうだよな、と思いながらマイクロリールの電球の光で新聞を読むことがほとんどである。原紙=オリジナルを見る機会といえば、大抵は美術館や博物館で資料として出品されるときであるが、ガラス張りのケースに囲まれていて触ることは叶わない。

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口のなかにきらめく光

からりとした天気の土曜日なのに、朝から明治の史料を読み、図書館に出かけて史料を複写して、ノートを取って・・・「んー」と悩んで。図書館が閉まると同時にそのまま横浜美術館の百瀬文展の初日へ向かう。

新作《The Recording》は、展示室に入った瞬間、ああ!と声を出しそうになる構成になっていた。最後のところで百瀬さんの口ぶりから、新井卓さんの写真がグワッときた。百瀬さんがある単語を呟いたとき、その口の奥に・・・新井さんによって写真の技法を再解釈されることによるあたらしい写真が、豆電球に反射したかのようにキラッときらめいた。
もうひとつの新作は・・・これはタイトルを書かないほうがいいだろう。あることに集中している女性の姿からプラトンとフロイトのエロスを両存させたようなことを思った。意外だな、この女性をみて、そんなことを考えるような人だったのだろうか、わたしは。

オープニングパーティでは、横浜美術館の柏木さんにお会いした。わたしは学生のとき、柏木さんの近代美術史を受けていて、レポートも出した。そのレポートを返却されたときに柏木さんが赤ペンであることを指摘されていて、すごく笑ったことがあって。その話をした、懐かしい。
ほか、学芸員の庄司さんと初対面。ほか、宮下さん、天重くんなどと久しぶりに会う。袴田先生もいらしていたが、人に囲まれていて、声をおかけするタイミングを失う。最近、人と会話らしい会話をしていなかったので、よいリフレッシュとなりました。

さて、21日の上映会は行くつもりでいる、緊張と楽しみが半々と。

あの作曲家について

佐村河内。名前を書くだけでも抵抗がある。

いまのテーマに「耳が聞こえない、いや、聞こえる」という議論があるけど、まるで近代日本でしばしばみられた、聾者のふりをしてお恵みをもらう犯罪を重ねてきた男とそれを看破しようとする盲唖学校の先生のエピソードを思わせる。

どちらにせよ、「耳が聞こえない」身体であることを告白し、しかも障害者という色眼鏡でみられるからこの告白はしたくなかったともいう。楽器もなく、ただ瞑 想するかのように作曲を行ったようにみせている。「闇から光をみつける」というような、聞こえないことは乗り越えるものであると設定のもとになされたプロモーション、ドラマティックなバラエティ番組・・・。
頭がクラクラした。

そして、このニュース。弁護士があの作曲家について質問を受けているシーン(0:30あたり)で、こんなやりとりがある。

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Q:ゴーストライターをしていた新垣 隆氏の会見を聞いた?
A:ご本人は聞いていません。あ、聞けるわけないんですが。

確かに聾者だったら声を聞くことはできないだろう。しかし、それを口にし、女性とともに苦笑いともとれるような笑いをした瞬間、とてもゾッとした。

聞けるわけがない言葉をきいてしまった自分自身に。
字幕によって、わたしはあの弁護士の言葉を自分のなかに取り込むことができる。わたしはこれを聞く、と比喩することがある。それで、あの「(聾者だから)聞けるわけがない」という声が混じっていたのを聞いた瞬間に、わたしは聞こえないのに聞いているという自己矛盾を引き起こしてしまって、ゾッとした。

おぞましい笑い方だと思う。

一瞬のグラデーション

20131027

keyword:グラデーション/樹/街路/信号/秋

大内青巒が理想とする死に方

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keyword:大内青巒/原坦山/ジェリコー

2013年 6月 08日(土) 22時45分56秒
癸巳の年 水無月 八日 乙巳の日
亥の刻 四つ

小鉢の破片

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久しぶりの休日。部屋を整理し、夏に向けて大掃除をしていたら、なにか硬いものが落ちていた。手にすると、床に落として割ってしまった小鉢の破片だった。
そうだった、冬に小鉢を落としたんだったなと思い出す。と同時に、歴史の不確実性を見た気がした。たとえば、美術史や考古学において、すでに失われてしまった何かの破片を対象に研究をして、全体イメージを構想したり、その模様から年代を推定するなど、いろんなアプローチがある。

それで、わたしが使っていたこの小鉢を知らない人はこの破片からは小鉢の全体を伺うことはできないが、わたしはこの破片から元の小鉢の形を脳裏で再現することができる。さらにこれは小鉢のどの部分なのかを指摘することもできるだろう。いうならば、それは歴史において、わたしという主体と他人という客体において、この立場がいかに相容れない存在であるか(ほんとうに客体という存在がありうるかはともかくとしても)。
たったひとつの破片。小鉢の一部分。この存在の全てでさえ、他の人に伝えることはできないことをあらためて思うと、その裂け目をこの破片の先に見てしまったようだ。

2013年 5月 26日(日) 23時27分04秒
癸巳の年 皐月 二十六日 壬辰の日
子の刻 一つ

保護中: 関東聾史研究会3月定例会

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わたしは女性を探している — 川村麻純展

昨日、資生堂ギャラリーで開催された川村麻純さんの個展へ。
わたしは川村さんの展示を二度訪問したことがある。最初はBankartで開催された芸大先端の制作展。これについては「見えない女性たち」という感想を書いた。そのときはヴィトーレ・カルパッチョや小瀬村真美さんのことを引き合いに女性たちの生死の表現が気になったし、川村さんの「声を撮りたい」という言葉に驚いたのだった。

その次は、LIXILでの個展だった。このときは、平日の昼ということもあり、あまり人がいないことをいいことに「女性の目と自分の目を合わせてみるとどうなるかな・・・」ってあのスクリーンに接近したら、その女性からずっと見つめられているというドキドキ感があった。時間を越えてわたしとその女性が見つめ合っているということになろうか。川村さんが被写体にカメラを見つめてくださいと指示していることがよくわかる撮影なんだと実感している。
ということで、今回は3回目の訪問になる。

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感想(2) ― 百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》

東京五美術大学連合卒業・修了制作展に出品されていた百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》の上映が終わりました。武蔵野美術大学のブースで、しかもテレビとヘッドホンによる上映という、作家にとっては「好ましくない環境」でした。

それゆえ、出演者としてもあまり積極的にPRはしなかったのですが、ヘッドホンがある、ないだけで全く違うように見えてしまうことであったり、あるいはヘッドホンがない人にとっては、聞こえない人が映像をみるかのような状況になっているという指摘もありました。また、ヘッドホンをつけてもなお、声を聞くことはできないという指摘もあったように周囲の反応がよく、広報させていただいたという経緯があります。

今日でその上映も終わりましたし、百瀬さんがKABEGIWAのポッドキャストで、ある程度、作品の背景について語っていると聞いていますので、ここでも少し3点、応答しておきたいと思います。ネタバレにならないように書いておきます。

(なお、まだ見ていない人は読まない方がいいでしょう)

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大乗寺の儚さ

愛知県立美術館にて「円山応挙展―江戸時代絵画 真の実力者―」が始まりました(2013年3月1日―4月14日)。

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明治の新聞記者・金子静枝

「京都新聞」2013年2月22日付、明治の京都で活躍した新聞記者・作家の金子静枝について寄稿しました。もとはといえば、去年の表象文化論学会において発表したものが京都新聞の方の目に留りました。
以下よりダウンロードすることができます。
https://tmtkknst.com/LL/wp-content/uploads/2013/02/kaneko20130222.jpg

この掲載日はわたしの誕生日でもあります。そして、この記事の〆切が18日で、金子の命日でした。金子の命日に仕上げられた記事が、わたしの誕生日に載る・・・。何かの因縁でしょうか?

どうぞよろしくお願い致します。

2013年 2月 28日(木) 17時18分52秒
癸巳の年 如月 二十八日 乙丑の日
酉の刻 一つ

新聞の挿絵にみる、明治の金閣

明治の『京都日報』にあった連載小説より、金閣での捕り物の挿絵があった。
これは金閣をバックにしていて、主人公が屋根から飛び降りていると考えられるところ。ちなみに金閣は1950年に焼失し、1955年に再建しているのでこのイラストは焼失前ということになる。 Continue Reading →

ニンテンドー64にイジェクターが無い理由

任天堂が販売していたゲーム機「ニンテンドー64」にはイジェクターと呼ばれる、カセットを抜くためのスイッチが無い。ファミコンとスーパーファミコンには採用されているが、ニンテンドー64には無いのである。これは説明書も含め、ニンテンドー64に関する書籍には情報が含まれていない(管見のかぎり)。
そこで、わたしは任天堂の問い合わせ窓口まで尋ねたことがある。そこで得られた回答は以下のようになる(原文のまま)。

—-
ゲーム機本体の機構は、その必要性やデザイン、コストなどさまざまな要素を考慮して決定いたします。

最終的に、ニンテンドー64では、イジェクトスイッチを採用いたしませんでしたが、さまざまな要素を勘案して決定しておりますので、具体的な理由はお答えいたしかねます。

ご期待に添えず申し訳ございませんが、何卒よろしくお願い申しあげます。
—-

理由は教えられないという。イジェクターそのものはシンプルな装置で、とくに難しい技術が必要とは思えない。本体の流線の効いたデザイン、基板の位置、イジェクターの配置のデザインがうまくマッチングしなかったかもしれないし、生産上の問題もあったのかもしれない。さてどうなのだろう?ニンテンドー64が何周年かを迎えたときには明らかにしてもらいたい。

2013年 2月 04日(月) 20時37分38秒
癸巳の年 如月 四日 辛丑の日
戌の刻 四つ

中原中也 最後の詩

中原中也が生前最後によんだ詩。

この写真は、山口市の中原中也記念館にて。
なぜかふっと思い出した。

感想 ― 百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》

平成24年度 武蔵野美術大学 卒業・修了制作展において、百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》をみた。

わたしは、この作品で「木下さん」と呼ばれる出演者だ。

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百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》について

武蔵野美術大学大学院の院生、百瀬文さんが修士制作として、わたしとの対談を映像作品として制作されました。
優秀賞にきまったとのことで、おめでとうございます。後日再上映もあるそうですが、今回はじめての上映ということでご案内致します。
撮影後の編集については、一切何も知りませんし、まだわたしはこの作品を見ていません。スクリーンに映し出された過去の自分とその内容についてどのような感情を抱くのかをいま、想像しています。

どうぞよろしくお願い致します。

以下、引用。
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皆様、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

このたび、平成24年度武蔵野美術大学卒業・修了制作展にて新作の映像作品を上映いたします。
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立命館での講演風景

lecture201301

生存学センターより頂いた写真。創思館の401、402のレクチャールームなるところ。
スライドの前にいるのがわたしで、その向かいには手話通訳者が着席するという仕組みで進めました。
じつは作業がたてこんでいて、徹夜明けだったりする・・・。
それはともかく、この報告の内容については、こちらを参照してください。

2013年 1月 15日(火) 22時45分20秒
癸巳の年 睦月 十五日 辛巳の日
亥の刻 四つ

 

 

立命館大学先端総合学術研究科での講演について

1、はじめに
立命館大学にて講演をしてきました。テーマは「明治10年代の京都盲唖院の発展と縮小に関する諸様相」でした。
ねらいは、京都盲唖院に関するトピックをしぼって話をしてほしいということで、京都ということもありますし、現地の方ならば誰もが知る事項についてお話ししようと考えていました。そこで取り上げたのは、

1、明治13年7月に明治天皇が京都盲唖院の授業を天覧したことについて
2、琵琶湖疏水の計画によって、京都盲唖院の経営が厳しくなったことについて

でした。また、参加される方々は院生が中心と思われるため、研究の手法についても知りたいという希望があり、それについても内容を盛り込むようにしました。

ここではどのように準備をし、どのように発表をしたのか、またディスカッションではどのような話題があったのかについて記録しておきたいと思います。

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突然出てきた女

帰省中、家族で夕食を食べたときに母から聞いた話。

母が小学生のころ、父(わたしから見れば母方の祖父、故人)の実家に帰省したときの話で、場所は大分の宇佐。
たまたま母が家を出て外にいたとき、隣家から30歳と思わしき女性が出てきて、いきなり「あーあー」と言ったという。言葉を話すことができないことが明らかで「どうしたんだろう」と怪訝そうにしていると、父が「あの人は耳が聞こえないんだ」と教えてくれたという。その人は教育を受けた経験もなく、ただ家にいるだけだったという。それっきりその女の人には会っていないとのこと。
これは、母が初めて聾者という存在を知ったという話で、どうして今まで話してくれなかったのかなあと思っていたけれども、ふっと思い出したという。

これは母に限らず、京都盲唖院関係の調査をしているときにときどき聞く話ではだけれども、母がそういう聾者をみたというのは知らなかったな。
わたしはこの会ったこともない女の人やその家に行ってみたくなった。学校に行かせなかったのだろうか。

・・・・・・・

もし、わたしが明治に聾者として生まれていたら。
あの女性のように「あーあー」と言いながら、ほとんど無意味に近い人生を送るのだろうか。それとも京都盲唖院か東京盲唖学校に通学しただろうか。これは、どんな家に生まれるか、あるいは何らかの出会いによるものだろうか。

まあ、そんなことを考えること自体とりたてて意味のあることではないが、日本語をこうして読み書きしていること自体が不思議なことに感じられるような、そんな話だった。

2013年 1月 06日(日) 23時09分00秒
癸巳の年 睦月 六日 壬申の日
子の刻 一つ

絵の見せ方 — ある家の方法

道を歩いていたら、こんな家をみかけた。立派な構えで、戦前の建築のようにもみえる。庭の木が剪定されていることや郵便受けの具合からして、人が住んでいる気配がする。この家の前をとおったとき、玄関先に目をひくものがあった。黄色いものだ。

Th DSC 5523

一見してすぐわかるけれど、正月を意識した油彩画だった(注連縄が飾っていなかったけど)。この絵は二枚あり、バックが同じ黄色なのでペアで制作されたものであろうか。
たしかにこの玄関先に華を添えている。 Continue Reading →

2013年の始まり — お雑煮

母からお雑煮の作り方を伝授された。作るのをお手伝いする機会はこれまでもあったけれども、一から作る方法を教わったのは初めて。

母は言った。

「これから何があるかわからないからね。」

確かに。いつの日か、わたしの両親は鬼籍に入る。もちろんそれはわたしだって同じことだけれど。そういうとき、わたしが困らないようにというつもりなのだろう。
母の言葉に感謝しつつも、我が家の台所でそのやりとりをしたとき、一瞬が永遠に、永遠が一瞬に感じられた。

正確には、母の実家のお雑煮の作り方で、そんなに難しくないレシピだったけれども、わたしがこれを一人で作ることはあるのだろうか?
そんなふうに2013年は始まった。

2013年 1月 02日(水) 00時16分20秒
癸巳の年 睦月 二日 戊辰の日
子の刻 三つ

2012年

2012年も終わりに。この一年を振り返るなら、『金色夜叉』での一文につきるかもしれない。

「とかつは驚き、かつは憤り、はたと睨(ね)めて動かざる眼(まなこ)には見る見る涙を湛(たた)へて、唯一攫(ひとつかみ)にもせまほしく肉の躍(をど)るを推怺(おしこら)へつつ、窃(ひそか)に歯咬(はがみ)をなしたり。可懐(なつか)しさと可恐(おそろ)しさと可耻(はづか)しさとを取集めたる宮が胸の内は何に喩(たと)へんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば抱付(いだきつ)きても思ふままに苛(さいな)まれんをと、心のみは憧(あこが)れながら身を如何(いかに)とも為難(しがた)ければ、せめてこの誠は通ぜよかしと、見る目に思を籠(こ)むるより外はあらず。」

2012年 12月 31日(月) 23時59分24秒
壬辰の年(閏年) 師走 三十一日 丙寅の日
子の刻 二つ

小さな椅子と文字をなぞること

大掃除を手伝う。

ふと、わたしが子供のときに使っていた椅子があった。かつてはわたしが食べるときに使っていた椅子だけれど、いまは洗濯物を受ける椅子になってしまっている。一種のアフォーダンスといおうか。

座ってみるととても小さい。お尻が納まるかどうかという感じ。もちろんわたしの身体が大きくなったからだけれども、逆にいえば、あのときの小さかったころの自分の身体を想起する。逆行する時間。

夕食のとき、母からおもしろい話をきいた。医学書院から出たインタビューについての話題になったのだけど、そのときに母が言っていたのは、マンホールの話。

わたしが3歳のころ、母に連れられて道を歩いていると、マンホールの蓋が道路にはまっていて、そこには「ガス」と書いてあった。それをみたわたしは、指で「ガス」とずっとなぞっていたという。他にも看板をみかけるとその文字をなぞろうとしたという。いまもなぞるように文字をよみ、なぞることで書き続けているのだから変わらないのだろう。

あの椅子に座っていた小さな身体と現在の身体のあいだで有変と不変のところが明瞭にみえた瞬間だった。

2012年 12月 30日(日) 23時29分27秒
壬辰の年(閏年) 師走 三十日 乙丑の日
子の刻 一つ

古本への処女航海

わたしが初めて行った古本屋「檸檬」。はじめて行ったのは小学校の6年生ぐらいではなかっただろうか。商店街のなかにあって、通路の左右に店舗があったのだけど、左は倉庫になったので右側だけ使っている。

主人は亡くなられたが、奥様が頑張っておられて、娘夫婦が別店舗で営業をしている。

品揃えは特段珍しいというわけでもないのだけど、しかし・・・わたしはこの古本屋で品定めをすることで、本との付き合いがより深くなっていったのだった。

帰省するたびに顔を出して、奥様と軽く会話をする。奥様がわたしを述懐するとき、こう仰られた。

「子供のときのあなたねえ、とてもつまらなそうな顔でじっと本棚をみつめているものだから、どうしたのかな、大丈夫かなといつも思っていましたよ。」

思わず苦笑してしまう。そんなにつまらなかったのかなあ・・・じつはこのお店で高橋留美子の『うる星やつら』『めぞん一刻』を知ったし、手塚治虫だってあった。新潮文庫や岩波文庫の多様さを知ったのもこのお店なんだし。それに『うる星やつら』の全巻はここでまとめ買いしたんだよ。

「ええー、そうですかねえ。」

と否定するのだった。いろんな本を通り過ぎた現在、ここに戻ってくるとあのときの、小学生のときの自分に出会えそうな気がしてくる。

2012年 12月 30日(日) 00時04分53秒
壬辰の年(閏年) 師走 三十日 乙丑の日
子の刻 三つ

京都市営バス204をめぐる旅

京都での調査が終わった。
京都府立盲学校で毎日朝から夕方までずっと手を動かして・・・。昼休みは何も考えずにいた。調査をひととおり終えたことで気分転換にピンボールしたかったけれど、ちょっとぐったりしているので行かず。

わたしが通っていた京都府立盲学校は千本北大路の交差点近くにあって、わたしは204のバスを利用している。一番の理由は便利だからだけど、前からこのバスのルートが好きで、同時になんともいえないセンチメンタルな気持ちになる。この204のルートは以下のようになっている。map

wikipediaより引用

ごらんのように204は中心にある京都御所をぐるりと囲むようなルートといえばいいだろう。時計回り、反時計回りの両方が存在する。本数も多く、観光向きといえるかもしれない。

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気になるあの子

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フランス国立図書館のfacebookで知ったこの画像。ロスチャイルド家のジェームズ・デ・ロスチャイルドとその妻ベティの娘シャルロットだという。アリ・シェフェール(1795 – 1858)によって1842年に描かれた一枚で現在はプライベート・コレクション。
髪型といい、この子は・・・。 Continue Reading →

明治村訪問記

今日は愛知県犬山市にある明治村へ。

明治村は、建築家・谷口吉郎と名古屋鉄道・土川元夫が1961年にスタートさせた事業で、背景には明治文化を維持することにあるという。1965年にオープンし、現在にいたっている。初代館長が谷口だった。
約100万平方メートルに明治時代の建築を中心を展示しており、とくに、1963年に西郷従道の邸宅を移築したのをはじめとし、近代建築を学ぶものにとっては必ず訪れなければいけないところになっている。日曜日に訪問したが、親子、若者、カップルと多様な雰囲気。混雑している様子はまるでない。ゆっくりみてまわることができる。

どの建築も一見の価値があるけれども、絶対に外せないのは帝国ホテルではないか。フランク・ロイド・ライトによる日本唯一の建築。そういうわけで、明治村は近代に関心のある人なら訪れる価値のあるところだ。そこで、明治村についてメモをしておきたい。

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川村清雄の和魂洋才

目黒区美術館の「もうひとつの川村清雄展」にいく。目黒駅から歩いていくのだけど、春に行くと桜がきれいなんだよね。このあたりは。
川村は江戸東京博物館と目黒区美術館で開催というこれ以上考えられないタイミングで回顧展が開催されていた。この二館で開催されたのはたまたまとは思えない、生年160周年だし、そのためなのだろうか。江戸東京では『形見の直垂』(上の画像)が展示されていた。勝海舟の胸像を見つめようとしている女性が勝との微妙な関係を思わせる作品。

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通路にものをおかないということ

京都府立盲学校におじゃまさせていただくことはお伝えしたことがあるけれど、まわりを歩いているとこんな看板がある。なんというか、この看板をみることで、ああ盲学校に来たなという感覚が強くなる。わたしの場合、バイアスなのか、はり、きゅう、マッサージときくとすぐ盲人たちのことを思い出してしまう。

IMG 2749

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一橋大学附属図書館での調査について

(写真:銀杏に囲まれる一橋大学。図書館は左側の時計台のある建物。右はあの兼松講堂。)

一橋大学にて資料調査をしてきました。
この図書館の利用方法についてメモしておきます。
わたしは外部者なので、資料を閲覧するときは前もって所属先を通じて連絡をしておく必要がありますが、この手続きはどこも同じなので省きまして、資料閲覧の許可がおりたら、向かうわけですが。

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藤原えりみさんを囲む食事会顛末記

昨日、藤原えりみさんを囲む食事会を企画させていただきました。 会場は市ヶ谷の「あて」。一度行きたいなとおもっていたお店。このお店のレビューについては、こちらなどをどうぞ。料理は3000円のコースに自由に飲む形式をセレクト。料理は少ないかな?と思いきや、そんなことはなかった。前菜からお椀、ごはん、デザートなどいろいろと出てくる。

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「あんぱさんど・おふ!in白金台」顛末記

「あんぱさんど・おふ!in白金台」なるオフ会をやったので、そのメモをしておきたい。

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