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中村彝『エロシェンコ氏の像』(部分)(1920(大正9年),東京国立近代美術館蔵)

 

これまで、わたしは2007年よりTMTKKNSTを運営してきましたが、SNSなどインターネットのあたらしいあり方に対応できなくなってきたように感じます。また、雑多になりやすいわたしの関心もあり、これに対応するために新たに構築されたサイトがこのサイト、「ライブラリー・ラビリンス」です。

ライブラリー・ラビリンス。図書館、迷宮。このふたつは相反している言葉です。なぜなら、図書館はどこにどういう本があるかわかるようになっていますが、迷宮はどこがどうなっているのかわからないようなことだからです。

ライブラリー・ラビリンス。しかし、これは自分のこころのもち方の問題だと思います。たとえば、整然とした図書館であっても明確な目的をもたずに入ると、それは迷路のようにみえてきませんか。そこでわたしたちはただ、迷うだけなのです。
そして、迷宮に入ったとしても、その空間や自分のなかに見極めるべき「徴(しるし)」をつけることができれば、それはライブラリーのようになってきます。そこでわたしは迷うことはありません。そう、ミノタウロスを倒したテセウスが迷宮を脱出したように。

ライブラリー・ラビリンス。このふたつの言葉は頭文字が「L」になっています。この字は折れ曲がっていて、それはわたしたちの行く先は曲がり角のようで、何が待ち構えているのかわからないということです。まさに福島の原発事故はそれだったのではありませんか?

ライブラリー・ラビリンス。どんな職業・立場であっても、この世のなかで、自分の座標を構築することがなによりも大切です。それは自分が必ず還ることができる基盤といってもいいでしょう。それが何かはわかりません。土地がそこにしかないように、人によって座標が異なり、しかもそれは重なることがないからです。
わたしはおのれの人生で、座標を失うことを何よりもおそれています。自分がなにを為すべきなのか、なにを行うべきなのかわからなくなるからです。

『神曲』でダンテは、暗い森で目覚め、ヴェルギリウスと旅に出ます。わたしはこの2012年、ダンテと同じ年を迎えました。彼のように暗い森で目覚めることとなったわたしは、ライブラリー・ラビリンスというヴェルギリウスとともに、この世を旅することにしましょう。

どんなライブラリー、どんなラビリンスがあらわれるのか。わたしは常に座標を確認しながら歩いて行くことになるでしょう。

どうぞよろしくお願い致します。

このページを見てくださった、あなたへ。

 

2012年5月27日
木下知威

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