パロディ化されるゲーム
どんなゲームなのか知るにはデモとプレイ動画をみるのが一番良いと思っているけれども、そのなかでたまたま見かけるものがあって、スーパーファミコンで大人気だった「ファイナルファンタジー5」(1992、スクウェア)。これはわたしも発売されてすぐ友達とすぐ買いに行き、夢中でやりこんでクリアしたものだった。 Continue Reading →
どんなゲームなのか知るにはデモとプレイ動画をみるのが一番良いと思っているけれども、そのなかでたまたま見かけるものがあって、スーパーファミコンで大人気だった「ファイナルファンタジー5」(1992、スクウェア)。これはわたしも発売されてすぐ友達とすぐ買いに行き、夢中でやりこんでクリアしたものだった。 Continue Reading →
2012年 6月 14日(木) 23時58分45秒
壬辰の年(閏年) 水無月 十四日 丙午の日
子の刻 二つ
2013年にラファエロ展があることがアナウンスされたので、パテック・フィリップ・ミュージアムの動画を。この動画のおわりに、ラファエロの “La Madonna della Sedia” をモデルにした懐中時計が紹介されている。円という絵をそのまま時計に採用しているところが憎い。他にもねずみや昆虫をモデルにした自在置物のようなギミックや鳴く鳥、綱渡りもあり、時計制作はそういうからくりと親しいことがあらためて伺える動画。これらの装置をみていると、カメラオブスキュラ以後、映画以前の「映像」のようにも感じられる。
アンナ・パヴロワの写真のように、わたしはときどきハッとする「もの」をみることがある。「もの」とはわたしの外にあるものすべてで、自然といえばよいだろうか。なぜハッとするのと聞かれて、その理由を語り始めようとするとその「ハッ」とする感覚が頭のどこかからぬけていくようで、それを捕まえるようにして語り始めることがある。これはわたしの無知や語学力の不足、記憶力の弱さをさらけ出すことであるけれども、それでも言葉にしなければならない。 Continue Reading →
いま、ヴァールブルクのボッティチェッリ論を読んでいて思ったのだが、この関連書籍のひとつにディディ=ユベルマンの『イメージの前で』がある。
これは、美術史の発明者であるヴァザーリとその末裔で改革者であるパノフスキーのふたりが中心に論じられているもの。16世紀の画家でもあったヴァザーリと19世紀から20世紀にかけての美術史をリードしたパノフスキーというわけだけれど。 Continue Reading →
先日、ソクーロフの「ファウスト」を鑑賞。一言でいうと、見るべき映画ですね。以下、ネタバレを含みます。 Continue Reading →
Edgar Martinsの写真展を去年、山本現代で見ているんだけど、この写真が強烈に脳裏にあって。
サイトにはポルトガルの「1950年代から1970年代にかけて相次いで建設されたこれらの水力発電所は、かつて200人以上の職員により管理されていた巨大装置でありながら、コンピューターで遠隔操作が行われるようになった現在ではほぼ無人で運転を続けています。管理システムに接続された機械が延々と並び、人間の気配の感じられない大空間を自若に捉えたこれらの作品には、われわれ人間がかつて描いたモダニティの奇妙な残骸が浮かび上がります。」 Continue Reading →
2012年 6月 08日(金) 23時14分45秒
壬辰の年(閏年) 水無月 八日 庚子の日
子の刻 一つ
Ferenczy Károly(1862-1917)という、ハンガリーの画家がとても気になるこのごろ。ハンガリーには彼の美術館もあるようで、著名らしい。日本では紹介されたことがあるのだろうか? 果たしてどのくらい知られているのであろうか。実物をみたことはないけれど、境界の曖昧さと身ぶりがなす雰囲気は、印象派の・・・そうだね、スーラとかのインスピレーションを受けつつも近代における「不安」が感じられ、ムンクのようでもある。
宗教画も描いているようだ。これは東方の三博士だろう。
カメラとコンピュータを使って一筆描きで自画像を作成するシステムの映像。このセルフ・ポートレートを試した人たちの写真もある。面白いのは、「自分を見ず」に「オートメーション」で描かれるということだろう。ゲーセンには、顔を撮ってもらったら自動的にイラストになってくる機械があったけれど、それとも違う。被写体がペンをもって紙の上におけば自動的に絵が描かれるというプロセスが入っている。
Poliziano “Stanze per la giostra di Giuliano de’Medici”
(Firenze, Antonio Tubini, lorenzo d’Alopa, Andrea Ghirlandi, c.1500)
いま、集中している研究があり、そのなかで少し気になることがあったので、アビ・ヴァールブルク『サンドロ・ボッティチェッリの“ウェヌスの誕生”と“春”―イタリア初期ルネサンスにおける古代表象に関する研究』を読み始める。原書は1932年、ライプツィヒで出版されたもの。わたしにとってヴァールブルクの出会いはだいぶ前で『蛇儀礼』が最初の読書だった。
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ヤコポ・デル・セライオ《プシュケーの物語》(1490年頃、ボストン美術館)について記録しておきたい。セライオの生没年は1441–1493というが、確定していないそう。もしそうであれば、15世紀に活躍したフィレンツェの画家とまずは覚えておこう。むろんこういう人いっぱいいるけども。セライオのこの絵はもともと家具の一部だったらしい。横に細長い家具だったと想像される。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=He4HYZOGY7E#!
機械の鳥かご。まさにちゅんちゅん!じゃないの。
@kandelion さんが「てぃっつぁんのFBとかリア充の極みに違いない」というので(てぃっつあんとはティツィアーノのこと)、もし、レンブラントがFacebookをしていたら?という内容をポスト。
ゴッホやフェルメールとやりとりしている。ゴッホとレンブラントは生没年が重なっていないので本来は会っていないはずだけども、楽しい。
クリスティアーン・ホイヘンスやルーベンスとも繋がってるwwww
いま、東京芸大であっている、高橋由一展に向けて『三島通庸と高橋由一 ― 西那須野開拓百年記念事業』という本を前に読んだのでここにメモしておきたい。
これは、三島が土木工事で切り開いた道、栃木、福島、山形の道を高橋由一が描いたことを中心に論じている本。高橋は200点ほど描き、そのなかから128点をピックアップした『三県道路完成記念帖』(三巻)を出版した。
裏返してみれば、三島が油彩画によるイメージの敷衍という効果を知っていたからではないかということが論じられている。
2012年 6月 03日(日) 23時57分02秒
壬辰の年(閏年) 水無月 三日 乙未の日
子の刻 二つ
いくつかMacのアプリを試す。テキストエディタを変えようと思って。
これまでevernoteを使っていたし、今もそうするつもりだけれども最近はちと重い。それで以下のものを見つけてきた。
日本画で屏風という形式を考えるとき、どうして六曲がメインのフォーマットになっているのかということがある。二曲、四曲、八曲の屏風があるにもかかわらず、どうして六曲が定着したのか、という話。それで、『日本美術襍稿: 佐々木剛三先生古稀記念論文集』には村重寧さんの「二曲一双」が収録されているのが参考になる論文。これは本来は宗達、光琳、抱一の二曲屏風について考察するのが目的だが、前半に屏風に六曲が多いのかという理由を書いている。以下、村重さんの話をまとめる。
PAPA(Professional & Amateur Pinball Association)の大会動画、セミファイナル。ここで使用されている台はFamily Guy(1999, Stern)。とくにJim Belsitoさんのフリッパー際のプレイがいい。丁寧に、そしてスピーディに落ち着いたボールさばきをみせていて参考になる。
Radioheadの”House of Cards”という曲。トム・ヨークがVelodyne LIDARによって捉えられた映像。身体にある細胞をできるだけ簡略化しているので、面が点のようになっている。これはなにか、ライプニッツのモナドのようにも感じられるし、モーションキャプチャーっぽくもある。
そして風景がでてきては、掻き消えてゆくところがあって、実際にあった風景を早送りすることで、わたしたちの記憶を曖昧にし、廃墟のようにしてく過程のようにもみえた。いうならば、これは記憶そのものを映像にしたようなものなのかもしれない。
レオナルドの「最後の晩餐」をオートマトン(自動人形)としたもの。Henry Phaliboisに帰属、1890年代ではないかというもの。これはいいね!
ちなみに動画もあり、こちらで見られる。
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Velodyne LIDARというものを使っている。レーザーを照射してその反射で周囲を形成するというものでコウモリやイルカがやっている方法に近い。
スゥ・ドーホーの”Bridging Home”(2010)という作品。 この人はメゾンエルメスや東京都現代美術館で展覧会をしたことがあるので、国内でも知名度があるアーティスト。でもこの作品ははじめて。これをみたとき、青井哲人さんの『彰化 一九〇六年 市区改正が都市を動かす』を思い出した。彰化(チャンホワ)は台湾の中部にある小さな古い街で、訪問したことがあります。
BBCのPinball wizard Tim Arnold shows off his Las Vegas museumをみた。ラスベガスにあるTim Arnoldさんのお店”The Pinball Hall of Fame”の紹介映像。ピンボーラーにとっては聖地なのにまだ訪問したことがないけれど、写真は何度かあるけれど、映像は初めて見た。知らない台がいっぱい。これだけずらりと並んでいる様は日本にはひとつもないのではないか。わたしがラスベガスを訪問したらば、昼間からヴェンチューリの『ラスベガス』をなぞるフィールドワークをしてからピンボールをしそう。たしかにラスベガスはその肥大な広告や過剰なネオンがピンボールの雰囲気とシンクロする面があるのではないだろうか。
アーノルドさんのインタビューを要約すると、俗にいうピンボールコレクターはピンボールファンのためになにかすることは考えないのか、と。それがこのお店のモチベーションにつながっているのだと考えたい。そのような自分が大切にしていることをひっそりと秘めやかにもつことは大切なことではあるけれど、オープンにできる部分を模索していくことはなにもピンボールに限らないことだと思う。わたしのなかにある精神も多くの人のためにありたいと思う。
「バットマン」(1989)を見たことがあるけれど、このシーンはすっかり忘れていた。ジョーカーらが美術品を傷つけていくシーン。よくみれば、レンブラントやドガじゃん・・・。
Evelyn Mary Dunbar (1906–1960)
A 1944 Pastoral Land: Girls Pruning at East Malling
初めて見た。切り取られた手によるワーク、静物、枝の手入れをする人々。遠近法が極端だね、こないだ東京国立近代美術館でみた原弘展にあったFRONTみたい。
Pillars from the Church of Saint Polyeuktos,
Constantinople, now in the Piazzetta di San Marco, Venice. Photograph by spoliast
メトロポリタンにて開催されている 「ビザンチウムとイスラム美術」は面白そう。公式ブログをみると情報量があってよい。
写真はヴェネツィアのサン・マルコ広場の「ピラストリ・アクリタニ」だね。第四次十字軍によってヴェネツィアまで運ばれたコンスタンチノープルの中心にあった教会、アオギス・ポリエウクトス(Saint Polyeuktos)の柱。ユスティニアヌス帝の娘、アニキア・ユリアナによって524-527年頃に建てられた教会だと教えられた。でも、この教会はすでに失われてしまっていて、全貌がわからない。もし何かの史料よりわかったらば、それはそれはすごい論文になると思う。しかしこのような意匠の柱がいくつも並んでいるところに出たらば、どこを見るべきか眩暈がするかもしれない。
source: http://www.metmuseum.org/en/exhibitions/listings/2012/byzantium-and-islam
御徒町の3331にて。ここは、天内大樹さんと訪問したことがある。天内さんと話していると、自分が思っていないことまで話してしまうのだから、ある意味危ないのかもしれない。
それはともかく、ここを訪問したのは、大友克洋GENGA展をみるためだった。かの『AKIRA』はワイヤーが張られた段のガラスケースに原画を載せていて、原画が浮いているかのような構成。
原画はほとんどA4で、見開きはA3横で描かれている。アキラは夢中になって読んだ漫画で、子供のころだったんだよね。クスッと笑ってしまうようなシーンもあるけれど、人が撃たれて死ぬシーンなんか、不条理というものを実感した強い思い出がある。
その原画をみたとき、はじめてアキラを見たという気持ちになった。漫画で読んで内容を知っていたことがふきとんだ感覚。ひとこま、ひとこま、世界がそこにある。絵画をみるとき、たとえばレオナルドのモナリザはたくさんの美術本に載っているけれども、実物をみると・・・というじゃない。でも、そういうオリジナリティがもつアウラともまた違うものだった。
アタック・フロム・マーズという、とても好きな台。最近は置いているお店が遠くなってプレイできていないけれど、火星人が現れたときにバイブが動いて振動がくるところがいい。
わたしはブリュッセルで一枚の絵をみた。ダヴィッドの「マレーの暗殺」(”Marat assassiné”1793 , 165 x 128 cm , ベルギー王立美術館)という絵。美術史では有名な絵で、見たいとおもっていたものだ。
マレーが入浴中に暗殺されたシーンであるけれども、湯船にある暗い血の色をなぜかよく覚えていて。
そう、こんな色だった。それで、来年6月の第55回ヴェネツィア・ビエンナーレの作家に選出された、田中功起さん。わたしが田中さんを知ったきっかけは、「六本木クロッシング」(2004、森美術館)に出ていた「トランクと血と光」という作品だった。これが強烈だったんだよね。
これは確か、部屋の隅っこにプロジェクションされていて、入口に「気分が悪くなる恐れがありますので、ご注意ください」のような注意書きの看板がかけられていたのを覚えている。
ジョルジュ・スーラ《アニエールの水浴》(”Bathers at Asnières” 1884, ナショナルギャラリー, ロンドン)
セーヌ河で水浴をする人たちと河畔にくつろぐ人たち、そのなかでひとりだけ雰囲気が違う人がいる。男の人だろうか?それとも肌や指の形からして女の人なのだろうか?でも、男の人だろうか。この人は何を考えているのだろう・・・。
帽子をかぶる人。
わたしにはその人の表情がよくみえない・・・。口元が奥にある花と草と混じりかけていて表情すら曖昧だ。
source: http://www.nationalgallery.org.uk/content/conobject/313
東京の御徒町周辺にて。幾分か水滴の大きい雨がパラパラと降るなか、太陽が照っている。晴れているのに雨が降っている、雨が降っているのに晴れているというどちらでもない天気。天気予報では、雨のち晴、雨ときどき晴とか表現しているけれどもそのどちらでもない、境界などでもない、晴雨という表現のような一瞬。
1629年、バルトロミュース・W・ドレンドによる銅版より。マリアの頭上に現れる、光に包まれた鳩。太陽に包まれたかのようなデザインがされる。
こうしてみると、光源に近いニードルの動きは一定したラインが外にむけて動いている。そして、外になるにつれて、乱れはじめ、空白が生まれる。それはウニのトゲのようだよね。その周囲には網型の身ぶりを伴ったニードルの動きがあってメリハリがある。
source: http://www.rijksmuseum.nl/collectie/RP-P-OB-67.618/uitstorting-van-de-heilige-geest
チョコレートを食べていて、ふっと思ったんだよね。板チョコなんだけれど、それは固体でパッケージされているじゃないですか。
食べようと思えば、板を手でパキンと割って、口にすると口内の温度や歯の圧力、湿度でドロリと固体が崩壊して、舌にチョコのほんのりとビターな味がしてくるんだよね。そして、粘度のある液体になって、わたしのなかに取り込まれていく。
そりゃあ、当たり前なんだけど、でもこのLL(ライブラリー・ラビリンス)を作ろうと思ったとき、このチョコレートみたいにしたいなと思ったんだ。
そう、板チョコという物質が少しずつわたしに取り込まれる感覚は、たぶんにわたしが何かをしていく過程に似ているんだと思う。例えば勉強するにしたって、そのまま体内にスッと入るのではなくて、体内に入れるように準備するということ。
そのまま飲み込もうとしたって、できないからね。
ここでは噛み砕いたものを出すということ。リキッドなデザインを選んだというのも根底はそこにあるかもしれない。
iPhoneからテスト投稿。
ライブラリー・ラビリンスにようこそ!まずはmessageをどうぞ。
2011年の夏の日、京都のMの部屋から撮影した揺れる葉。カメラ・オブ・スキュラとの比較のために。
18世紀に加筆されたという説を提唱しているが、説得力があると思う。これはわたしのパソコンに入っていたデータだが、どの新聞記事なのかわからなくなってしまっている・・・。
母の友人に、原爆ドームとなった建物に勤めていた人がいました。毎日出勤していて、たまたま8月6日の朝だけ所用で出勤しなかったために生き残ったと言っていました。彼女の同僚はそのほとんどが、文字通り消えてしまったそうです。ある知人の父親には、右耳がありませんでした。その朝、いつものように早めに出勤した彼は、同僚と並んで座っていたそうです。一瞬の閃光であたりは真っ白になり、気がついた瞬間には倒れた壁の間にいたそうです。座っていた場所の後ろに窓があり、そこから差し込んだ熱線で彼の右耳は失われましたが、それ以外は陰になっていたので助かったのです。しかし、隣に座っていた同僚は影も形も残っていなかったそうです。
引用元: 池上英洋の第弐研究室:再掲: 広島に生まれて。8月6日.
原爆によって耳を失うということ。熱線によって消え去る身体が恐ろしい。こんな恐ろしいことは二度とあってはいけない。
迷路といえば「シャイニング」のこのシーンが思い出される。
長谷川 しかも『本屋風情』という名前を皮肉たっぷりにちょうだいするくらいだから、相当親しいわけです。もちろん岡茂雄さんは大変な南方ファンで、柳田さんとは不協和音があったわけです。それは『本屋風情』によく書かれています。結局、中山太郎さんが仲介して、『南方随筆』『続南方随筆』の二編を大正十五年に岡書院でお出しになったわけです。
中沢 それが例の中山太郎の「略伝」の問題とも絡んでくるわけですね。
長谷川 そうそう、「私の知ってゐる南方熊楠氏」。もっとも柳田先生の反応も少し異常なくらいで、大人げないですがね。
早稲田大学会津八一記念館にて。
http://www.waseda.jp/aizu/2012/2012%20exhibition/kikaku2012-sakazaki.htm
●会期:2012年5月21日(月)~7月7日(土)
●開館時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
●休館日:日曜、祝日
●入場料:無料
鴨居玲の絵があるんだな。
英語字幕あり。
彫刻と絵、工芸がからみあっているもの。
こうしてみていると、遠近法と空間の境界が曖昧に感じられてくる。