わたしにとって、電話にまつわるもっとも古い思い出は、母の述懐による。母によれば、電話をしていたときに幼いわたしが「だれ?」と声を出して尋ねたらしい。この何気ない質問は、母にとって強烈な記憶になっているらしく、思わず泣いてしまったという。
もちろん、わたしはこのことを覚えていない。
ただ、電話というメディアは相手の姿がみえず、補聴器を介しても声の内容をつかむこともできないという意味で、わたしにとってはもっともメディアらしくないメディアだった。今も基本的に変わらず、どなたかと遠距離でやりとりをするときは「すみません、わたしは電話ができないんです」と断っている。
さて、クリスチャン・マークレーのこの作品はいろんな映画の電話をするシーンを切り取って、編集している。あとからやってきたものの特権でいえば、あの有名な「ザ・クロック」が見え隠れしている。
これをみていると、電話を「かける」「探す」「とる」「おろす」といった身振りがあって、単に会話をするためのメディアじゃないんだなと感じる。この編集も巧妙で、最初は「かける」身振りになっているが、終盤になると電話を終える形になっている。ラストはふっつりと切れた電話、もう届かない声のむなしさ。
電話は不思議な装置だ。福田裕大さんが最近刊行されたシャルル・クロ論でも示されているように、電話という機械は聾者の影がつきまとっているにもかかわらず、わたしはその電話そのものにふれることができない。これをつかって、コミュニケーションをしているひとたちは頭に何を思い描いているのだろうか。それはわたしの想像をはるかに超えている。
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