加藤康昭は、旧制一高在学中に腎臓炎によって全盲になったという(朝日新聞、1980年5月29日)。すなわち先天性の盲人ではなく、視覚がどういうものか知っていたといえるだろう。そうして受験できるのが東京教育大学だけだったらしく、そこに入学することになったという。
そして、加藤が修士課程にいた1969年に高田馬場にある点字図書館で働いていた滋子夫人と出会ったという。そうしてより研究にうちこむのだと想像するのだが、その方法が記されている記事があった(朝日新聞、1974年1月24日)。これを読むと、以下のような手続きによって研究を進めていたことがわかる。
1、滋子夫人が資料をコピーする。
2、資料を夫人、ボランティアがテープに吹き込む
3、本人がテープを聴いて、タイプで点字化
4、夫人らが墨字にする(字にする)
5、下書きと資料を照合
6、下書きをテープに入れて推敲
なんというか、加藤がいうように一人ではできない作業。夫人が夫のかわりに見ていた、といえるだろう。ここで注目したいのは夫人が資料をコピーするというが、彼女はどうやってあれだけの資料を集めたのであろうか。点字図書館に勤務していたというから、図書学、文献学に関する知識を生かして加藤を助けたことは想像できるけれど。
この点はとても重要だと考えている。
2013年 4月 15日(月) 20時22分13秒
癸巳の年 卯月 十五日 辛亥の日
戌の刻 三つ