有本真紀『卒業式の歴史学』を読みました。
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目次は以下のようになります。
第一章 卒業式のはじまり
第二章 試験と証書授与――儀式につながる回路
第三章 小学校卒業式の誕生
第四章 標準化される式典――式次第の確立
第五章 涙との結合――儀式と感情教育
第六章 卒業式歌――「私たちの感情」へ捧げる歌
カーツァーやフーコーといった権力と儀式の考察を引きつつ日本における「卒業式」について論じた本です。それだけでなく、著者が芸大の音楽学部を卒業していることもあり、卒業式の「唱歌」についても注目しているところがこの本の特徴だといえます。このうち、一章から四章を簡単にまとめます。
第一章 卒業式のはじまり
近代の儀式の嚆矢として、明治天皇即位の礼、先帝祭、紀元節、神武天皇祭、天長節を組み込んだのは神祇官であるといい、明治維新は儀式の一新であったというところからはじまります。
ところで日本における卒業式というと、記録上では1876年6月29日に陸軍戸山学校で行われた「生徒卒業式」のが最初ではないかとし、その内容から観兵式と観艦式に付随するものとして開始されたといいます。そして、天覧も含めてその大掛かりな内容はフーコーのいう「規律」「訓練」を受けた集団に対する眼差しが表現される場であり、なおかつ「近代国家の威信」を示したといいます。東大でも1877年に第一回卒業式が挙行されたといいます。
このあと、官立・公立学校で卒業式が行われるようになるといいますが、内容としては、授与、学事報告、祝辞、答辞、演述のみであるといいます。これは各学校の特性によって変形が施されることがあるといいます。「それは、授与と祝辞答辞および演述だけの簡潔な型」と「成果発表に重点を置く型」に大別されるといいます。前者は「私立学校卒業式のほか、明治二十年代に入って警察教習所、国家医学講習科、郵便電信学校など多様な学校が授与式を行う際のモデル」であるといいます。後者は「各学校の特色を最大限にアピールできるよう企図」されているといいます。
さて、京都ではどのような卒業式が行われていたのか気になるところですが、同志社の例が取り上げられています。同志社は1879年から卒業式を行っており、内容がわかるものとしては「奏楽、祈祷、演説・作文(含英語)、奏楽、演説・作文、卒業証附与、奏楽、祈祷」となっているといいます。このうち「奏楽」はオルガンに合わせて賛美歌を歌うことであるといいます。卒業生の演説に多くの時間をあたえているこのやり方は1892年まで続き、翌年からは来賓演説に変わったといいます。これは籠谷によれば「学校の内輪の儀式であった卒業式が外部を意識した儀式となったことを意味している」といいます。籠谷次郎「学校儀式と讃美歌」によっているようです(松下釣『異文化交流と近代化―京都国際セミナー1996』所収)
キリスト系学校においてはその小さなコミュニティということもあり、「卒業式はメンバーシップを確認する」場でもあったといいます。たとえば、青山英和女学校では招待する/される関係にある者が集まり、団結を強める場として機能していたといいます。
第二章 試験と証書授与――儀式につながる回路
小学校が始まったとき、始業式はあっても卒業式はまだ見られなかったと指摘します。1872年の学制をもとに「当初の学校は現在のような学年学級制とは異なり、就学を希望した子どもは年齢にかかわらず下等小学第八級に入れられ、試験に及第して「試験状」すなわち受験した級を卒業したことの証明書を得なければ七級に進級できなかった」と復習をします。このように、小学校における卒業は各級の修了を意味していました。
そこで有本が注意するのは、「近代学校が「身を立るの財本」としての教育をめざしたことによる」とするところです。つまり、次々と等級をクリアしていくという試験による進級は学校の裁量では実施することができず、官吏が立ち会うことで試験の質を担保していたというわけです。この試験というのはいわゆるペーパーテストだけではなく、口述試験もあり、一般参観者にも公開されていたといいます。そして試験の落第率は斉藤利彦『試験と競争の学校史』によれば20〜30%が想定されるといいます(ただし、地域によってかなりばらつきがある。234頁参照)。
この試験に及第した子どもは卒業証書を受け取ることができたといいますが、落第した子どもは泣いたりしたといいます。有本は「1885年以前、師範附属以外の小学校で授与の手順がわかる記録は、管見の限りこの他(「千葉県東葛飾郡小学校定期試験法細則」『千葉県教育史』巻2、p828-289)には見られず、授与が試験の一過程」であったといいます。
第三章 小学校卒業式の誕生
小学校への卒業式導入については、まず師範学校について語らなければならないといいます。それは、「新しい儀式は師範学校から小学校へともたされたからであるが、ことは一つの儀式の問題ではなく、日本の近代学校教育システムが開始された全体状況にかかわっている」といいます(76頁)。
それで、師範学校初の卒業式は、1879年3月13日に行われた東京女子師範学校第一回卒業式であり、皇后を迎えて挙行されたといいます。内容としては、演説、答辞、祝辞、理化学試験、作文朗読、証書授与、唱歌(ピアノ伴奏)、このあと皇后が附属小学校を視察しているあいだに生徒が準備して、講堂で体操をみせたといいます。このように最新の女子教育の成果をプレゼンテーションしたということになります。
そして、1885年12月の文部省達により、「一等級の標準学修期間がこれまでの半年から一年へと変更された」といいます。これは、能力により学級の入れ替えが頻繁だったことを落ち着かせることで「集団の安定性」が高まったといいます。これによって、生徒は「○年級」と区分されるようになったといいます。これまでの学制期・教育令期では最上位を「第一級」としたのに対し(現在でいえば、柔道や書道のように)、小学校令期では最下位の「一年級」から進級するごとに数が増えていくといいます。これによって、卒業式は年一回のみとなったと指摘します。これは佐藤秀夫の研究からひいていると思われます。
第四章 標準化される式典――式次第の確立
1892年から小学校は全国的に4月始まりと統一されることになることを佐藤の研究をもとに述べつつ、卒業式も3月下旬の行事として定着していくことになったといいます(しかし、なぜそもそも4月なのか?)。そして、これまでは随時入学が認められていましたが、明治30年前後からは入学式も行事に組み込まれていくといいます。ここで重要なのが「学級編成」という考え方であり、児童数によって編成された集団であるといいます。これによって、等級から頭数によって「学級」にまとめられるようになったといいます。要するに学力から人数を基準にするということです。(日下部三之介『日本帝国小学校統理法』1896年)
これによって男女別にする、成績が上位、下位の学級に分けるなどと様々な学級のあり方が検討されるようになったといいます。いずれにせよ、教員は学級という集団をまとめる方法に意識を集中させるようになるといいます。すなわち、同じ空間で同じ時間を共有し、協同心を強めつつ、生活を共にする集団という意味を強めるといいます。このような経緯のもと、明治20年半ばをすぎると卒業式の多様性が失われていき、30年代には定型化していくといいます。それは振る舞い方に関しても同様で、静粛にして規律の整った式が指導されるといいます。第二章で触れた、落第された子どもが泣くということは消えていったと有本は考えています。
同書を読了したときにフッと思ったのはまず、なぜ「卒業」なのかということです。この言葉自体、いつのものなのか。そして、入学式が4月に設定されたことにより、卒業式が自動的に3月下旬に設定されるようになったというところで、なぜ、入学式が4月なのかということをわたしは知る必要があるように思われました。
参考文献
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2013年 4月 30日(火) 18時20分25秒
癸巳の年 卯月 三十日 丙寅の日
酉の刻 三つ
朝日の書評欄で取り上げていましたね。面白そう。
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