2013年11月25日に『『日出新聞記者』金子静枝と明治の京都』が刊行されます。

金子の本名を「錦二」。明治期京都の日出新聞の記者で、美術・工芸・芸能に通じていたひとです。現在の京都新聞は明治のとき、「日出新聞」といっていました。

同志社大学の竹居明男先生と一緒に作った本で、わたしは「金子静枝に向かって ― 明治十年代の金子錦二」を書き下ろしています。

わたしと金子静枝の出会いについて少し記しておきましょう。

京都盲唖院の一次史料を調査すると、明治期の新聞記事が織り込まれていた。それは京都盲唖院や検校に関する記事で史料を考証するスタイルで、書いたひとの名前をみると「静枝」「金子静枝」とあった。それがそもそものきっかけで、京都府立盲学校の岸博実先生はわたしに「金子の伝記はないのですか?」といわれた。わたしは「いやあ」と首をふって答えたのですが(香取秀眞による短い伝記があるのですが、当時は知らなかった)、心のなかでは金子の本が出たらいいんじゃないかなと思っていた。

そうして調べているうちに竹居先生のことを知った。先生は、金子静枝のスクラップブック8冊を所蔵されている方です。これを閲覧させていただけないか、とお願いすると快く応じてくださり、スクラップブックについて考えさせていただく機会になった。
これを去年、表象文化論学会で発表したのですが、それを京都新聞の方がご覧になり、「記事を書いて頂けませんか」とご連絡をいただきました。そうしてできた記事がこちらです(JPG)

この記事を出版社・芸艸堂の京都店の方がみつけてすぐに相談役・本田正明さんに連絡を入れたそうです。本田さんより、大変驚いた様子でご連絡をいただきました。

本田さんによれば、芸艸堂はそもそも「本田雲錦堂」「山田芸艸堂」が合体した会社ですが、「本田雲錦堂」は金子静枝が命名したというのです。金子が「本田雲錦堂」から本を出していることは知っていたのですが、命名もしていたことは知らなかった。それで、本田さんは長らく「金子静枝とは誰なのか?」とずっと思っていたとのこと。わたしの記事を見つけてご連絡をされたということでした。

本田さんに竹居先生のことを話すと、すぐスクラップブックを見にゆかれた。それからしばらくして本を出したいとご連絡をいただいたのが今夏のことです。理由は岡倉覚三没後100周年だし、本田さんも80を過ぎておられ、出版を急ぎたいというご希望があったから。

そういうわけで、本田さんのお気持ちに応えたく、書いたものが今回収録される論文「金子静枝に向かって ― 明治十年代の金子錦二」です。

金子は明治21年に岡倉覚三らの近畿地方の古美術調査に同行し、詳しいルポを日出新聞に書いているのですが、それを見いだされたのが竹居先生。先生はそれに注釈をつけて雑誌に掲載されたことがあるのですが、それがまとめて今回の本に再録されます。
この古美術調査は日本近代美術史のなかでは重要なトピックとして語られるけれども、このルポは美術史のなかでどのように採用されてきたのだろうか、また、岡倉と金子の視点はどのように異なるのだろうか。それが気になるところです。美術史での反応を楽しみにしています。

さて、わたしの「金子静枝に向かって ― 明治十年代の金子錦二」はその古美術調査以前の金子はどこで何をしていたのか?についてフォーカスをあてることで、明治21年の金子につながるように、時系列を意識しています。
これまでの金子静枝に関するテクスト・伝記ではまったく出てこない、初出の史料ももりこんだ、短いものです。

史料というのは、どこかにしまっておくものではなくて、歴史のなかに位置づけることではじめてその力を発揮してくれる存在だと思います。今回の論文にかぎらず、これからの仕事でもそういう姿勢を積極的に示していきます。

どうぞよろしくお願い致します。

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