今年も末となりました。今年最後のフィールド・ワークとして、福岡県北九州市にある黄檗宗・広寿山福聚寺(ふくじゅじ)を訪問しました。

ここを訪れた理由は、楽善会訓盲院、東京盲唖学校で教員をしていた高津柏樹のことをおたずねするためでした。鈴木力二(りきじ)が高津について仔細に考察されているように、近代日本の盲教育において高津はキーマンのひとりですが、あまりプロフィールがわかっていません。ただ、高津は黄檗宗の本山・萬福寺で管長をしており黄檗宗の世界では名がとおっている人物です。高津が黄檗宗の道をスタートしたのはまさにこのお寺であるといいます。年末のお忙しいところ、お寺の方のお世話になりました。ありがとうございました。
まず、高津の墓にご案内いただきました。

Fukuju-ji01

 

高津の御墓は歴代住職の墓所にあり、上の写真でいうと右から2基目が高津の墓です。これをみて感じたのは、高津は福聚寺の住職になっていないのに、歴代住職の墓にある ということでした。そのわけをお尋ねすると、萬福寺の管長になったし、特例なのではないかとのこと。

Fukuju-ji02

記銘を解読すると以下のとおりとなります。

正面:黄檗森柏樹子塔」
向かって右:大正十四年九月一日示寂
向かって左:(記銘なし)
背面:
黄檗四十四代瑞聖三十九代瑞龍五十代養徳二十
四代法華十代正順二十代忠根山開基
天保八年丁酉年正月三日誕生
尚壽會員謹立

天保八年生まれというのは、これまで天保七年生まれとなっていることと相違します。検証が必要なところとなります。背面には高津の黄檗宗におけるキャリアが記されています。その最初にくるのは黄檗宗の管長であるということ。とくに、「養徳」というのは養徳院のことで、かつて福聚寺の末寺であったとのこと。この墓を建てたのは、尚壽會なる会のメンバーだったようですが、これについてはわかりません。高津は亡くなったあと、黄檗宗の道を歩みはじめたお寺に墓が建てられたということです。

興味深いと思われたのは、福聚寺の17代目住職・月桂益中の御墓に高津の名前が刻まれていることでした。それがこちら。

Fukuju-ji03

記銘を解読すると以下のとおりとなります。

正面:廣壽十七代月桂大和尚祥師塔
向かって右:弘化三年四月二日遷化
向かって左:
仙杖 柏樹
宗鏡     敬立
梅山 智明
背面:記銘なし

墓をみるかぎり、月桂は、弘化三年(1846)に亡くなっているとのことで、高津はその弟子5人の1人であったという見解をお寺は示されていました。天保7か8年生まれの高津の年齢からすれば、満9、10歳のときに亡くなったときの住職ということになります。ただ、このときまでに高津が福聚寺に入ったかどうかを確認できる記録はないとのことでした。その理由として、慶應2年に長州藩の攻撃を受けて福聚寺の寺坊が燃えており、文書類が失われたことが挙げられます(ただ、本堂・山門・鐘楼は燃えず、今に伝わっています)。
そして、『黄檗宗鑑録』という黄檗宗の住職の記録によると、高津は元治二年(1865)三月十五日に月桂より委されたといいます。しかし、月桂は弘化三年(1846)に亡くなっているので矛盾してしまいます。お寺と検討を行いましたが、月桂はすでに亡くなっているが、弟子であったから「かたちとして受けた」ということではないかとのことでした。

高津の父は青柳彦十郎という小倉藩士であることは高津本人が語っているところからも明らかですが、お寺に青柳家ゆかりの墓はないとのことで、なぜこのお寺に入ったのかは資料を幅広く求めたうえで推論しないといけないようです。青柳については明治2年に小倉藩が建てられたときに藩校・育徳館に求めることができます。以前、北九州市立図書館で調査した、明治三年以後の育徳館教員及生員氏名によると、剣術の教導師としてこの人物の名前があります。

また、15年ほど前に、高津家の方がお寺までお参りにきており、住職の先代が対応されたとのことでした。その際に、「高津」の発音は「たかつ」であったことをきいたといいます。高津は、近代日本の盲教育において重要な人物のひとりなので、高津についてご存知の方はぜひともご一報いただけますとありがたく思います。

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