戦後71年。日本にも戦争の傷跡は残っていて、建築でいうと「戦争遺構」「戦争遺跡」ということがある。その遺構が集中的に点在しているところがある。場所は大分県宇佐市で、市のウェブサイトより知った。具体的には、柳ケ浦駅の南に集中している。駅の売店にある、レンタサイクル(1日300円)の電動自転車を借りて南下していく。レンタサイクルは9時から16時までと比較的短めなので注意されたい。
宇佐市の観光ガイドはこちらが詳しい。市のウェブサイトには戦争遺跡についての説明を引用しよう。
昭和14(1939)年10月1日に宇佐海軍航空隊が開隊し、艦上機(航空母艦から発着する航空機)の搭乗員を要請するため、多くの航空隊員が宇佐で訓 練を行っていました。昭和20年になると、宇佐海軍航空隊でも特攻隊が編成され154人もの若者が命を落としました。一方で、宇佐海軍航空隊とその周辺は 米軍による空襲を何度も受け、多くの方が亡くなりました。
市内には現在でも、軍用機を格納した掩体壕(えんたいごう)や、機銃掃射の痕が残る落下傘整備所など、多くの戦争遺構が残されています。戦争の脅威や平和への願いを伝えるため、戦争遺跡の保存を進めています。
柳ケ浦駅の南はかつて、宇佐海軍航空隊の基地があり、その建築のあとがあるという。時間の関係で、今回は掩体壕とエンジン整備室、レンガ造り建物、爆弾池といったモニュメンタルなところだけを見て回った。
まず、駅からもっとも近いエンジン整備室から。駅から自転車で10分ほど。
エンジン整備室は、航空機のエンジンだけを取り出して整備するところであったらしい。住宅と田畑に囲まれている風景が印象に残る。近付いてみると、すぐ側のうちの方が畑仕事をしていた。こんにちは、と挨拶すると曖昧な返事。トマソンというべきか、壁には屋根の痕跡のようなものがみえる。
屋根の内部であったらしいところには無数の穴の痕がある。機銃掃射のあとであろうか。
天井には穴があいており、天井高のある部屋が3つ、小さな部屋が1つ。整備室であろうか。台座のようなものがあり、エンジンを設置するところであったろうと思われる。どことなく、ポストモダニズムの建築を思わせるところがあるのは、コンクリートの造形によるものであろう。
エンジン整備室隣の物置。ドアがドアの意味をなしていないのがおもしろい。そう、劇場でみるような意味としてのドア。
やっぱり、上の写真のように、戦争のための建築の隣に住宅があることに強く惹かれてしまう。過去と現在の存在同士が隣り合うことができるのは、空間の力によってのみ可能なことなのだ。
こちらの建築は「レンガ造り建物」という名称、用途不明なので曖昧な名前になっているが、宇佐海軍航空隊が使用していたという。これも住宅地にあり、ひっそりと建っている。砲弾のあとを残しながら。
こちらは爆弾池。アメリカ軍が落とした爆弾の衝撃が、地形に加えた力のあとを残しているところ。かつてはもっとあったらしいが、今はここしかないという。直径10mほど。場所が少し分かりにくいので、Google Mapで示しておく。
池ではなくなっていた。春・夏になると雨水がたまって池になるのだろう。それよりも、「爆発」の広さをこの池から想像してみると、最近のテロ事件に巻き込まれてしまったひとたちのことを考えざるを得ない。足を踏み入れるとべとついた土になっていて、スニーカーが土にめりこまれていく。タニシの殻がたくさんころがっているのがみえる。べとついた血ところがっている肉片のあいだを歩いているようなものであったかもしれない。
思い出すのは、畠山直哉さんの写真。BLASTというもので、鉱山だったろうか、爆破の瞬間を撮影したもの。ウゴッと巨大な岩が飛び散るあの写真。
アメリカ軍の空襲も、鉱山の意図的な爆発も地形を削ることには違いない。そのくだけちった地形のあとを71年も残すということ。
大西洋を渡った彼らはこの空から爆弾を落としていったという・・・。向こうからも、こちらからもよく見えたであろう。近くにある宇佐市平和資料館には当時の空襲映像があるそうなので、いずれみてみたい。
宇佐市の歴史研究団体らしい「豊の国宇佐市塾」は活動が活発らしく、いくつかの冊子が観光協会に置いてあった(在庫がなく入手できなかったが)。その団体が空襲映像を特定したそうで、それを報じたニュースが以下の2つ。2つめは先ほどのレンガ造り建物の解説映像で、最後に空襲の映像がある。
掩体壕は周囲にいくつかあり、トラクター置場になっているものもあれば・・・
工場の資材倉庫のように使われているところも。
物置にしているうえに、上に植樹をしているものであったり。 所有者の趣味なのであろう、ちょっとした丘のようになっている。
駅でレンタサイクルを返したあと、ホームに座る。本当は宇佐神宮を見るのが主な目的ではあった。けれども、これらの戦争遺跡をみてまわるということによって東日本大震災の震災遺産のように壊れた建築、本来の機能から外れて別の意味合いをもつにいたった建築を考えるよい機会になったと思う。
宇佐の掩体壕はトラクター置場や駐車場にしていくことによって、未来を生きるという選択があった。それは建築保存の視点からは好ましくないかもしれない、しかし、わたしにとってはかつて戦争があったということの証左にちがいないのであって、いまに生きるひとたちもこの建築を利用することによって戦争の思い出を保持している。この方法もとられるべきであろう。
爆弾池。あれは、建築ではないけれども、「爆弾」そのものによって地形に刻み込まれた戦争の記憶であった。逆説的かもしれないが、それを残そうとする意思もまた、爆発のかたちになっていないか。なぜなら、そういう感情がなければあのような池を残そうとは思わないからだ。
RT @sourd: 宇佐市の戦争遺構をみてまわりました。
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