タワーホール船場にて「LISTEN リッスン」を見る。
基本的な骨格として、聾者の語りとパフォーマンスが交互にあらわれる映像である。語りには字幕がつけられており、聾者が音楽について語ったのち、パフォーマンスに切り替わる形式となっている。

まず感じたことは、聾者たちのバックグラウンドがここまで広がったんだなと思えたことにあった。わたしのように明治時代の盲人や聾者たちに関する研究をしているからそう感じられるのかもしれない。当時は聾者ではなく「唖者」というけれど、かれらは職業選択の自由がほとんどなく、また手話も地域によって大きく異なっていた時代である。その時代から150年で、ここまできたのかという時間の幅があった。

感慨深いことだ。この表現を達成された点において2人の監督と出演者に賛辞をおくりたい。

さて、いくつか考えたことがあり、その一部を書いてみよう。

まず、米内山明宏さんのパフォーマンスについて。牧原さんはアフタートークで「手話詩というか…」と手話ポエムとは異なる視点を示していたけれども、わたしにとっては米内山さんのパフォーマンスは「芸」であって、それは彼しかできないものである。米内山さんをはじめ、手話のスキルやパフォーマンスのレベルに違いがあるのも、現在だからこそだと思える。

米内山さんが個人史を語っているところで、音楽の時間に関する話があった。要約すれば「聾学校における音楽の時間は、楽器を演奏するのではなく唱歌の時間だった。それは発声訓練でもあったから嫌だった」という。

これを単に口話教育への批判だと捉えるべきではない。

日本における音楽教育は、音に合わせて身体を動かすということが「規律」と結びつけられていた。そういう身体の規律が日本の音楽教育の根底にある。たとえば、集団で同じタイミングで身体を動かしたり、歌うことであった。おそらく、聾学校での音楽の時間も口話教育の潮流とも合わせて、この身体の規律の延長で考えられているのだろう、楽器を演奏しないというところからも。
このような音楽教育を推進したひとりが、伊沢修二という官僚・教育者である。伊沢はアメリカに留学したときに、グラハム=ベルから自身の英語の発音がよくないからということでレッスンを受ける。このときに学んだのがヴィシブル・スピーチであり、伊沢はこれを「視話法」として聾者への口話教育に応用している。現代の口話教育の手法は視話法とは違うけれども、聾者に日本語を発声させるという目的は伊沢の時代から不変である。伊沢の思想がいまも鳴り響いているのである。そう・・・映像にしばしば出てくる、手によって表現される水の波紋のように、また背後の海のさざなみのように。この音楽教育と口話教育の成立に関する文脈を押さえておく必要があるだろう。キーマンは伊沢なのである。

そのうえで複数の聾者がパフォーマンスをしているものをみると、1人として同じ動きをしていない。リズムの取り方でさえ、個々人によって違う。これはそれぞれの魂から溢れ出しているものであって、音楽教育がめざすものから完全に逸れている。言いすぎると、学校の音楽の時間では達成しえないパフォーマンスでもあって、このあたりがひじょうにおもしろい。

百瀬文の映像「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」との関係も言及しておく必要があるだろう。この映像に出ている聾者は手話を使わず、口だけで話をしている。彼によれば、声を出し続けるためには自らが聴者のつもりになる必要があったという。逆の見方をすれば、伊沢が目指していた口で話すことを成し遂げようとする聾者の姿である。口話教育によってつくられた世界である。それゆえに、現在の聾者たちからみれば男女が会話する「インタビュー」でしかなく、聾者が認識できる世界の外枠にある。

こうして並べると、一方は音楽と手話の新たな可能性があって、もう一方は口話教育の極みがある。このふたつの世界には深い崖があって、相容れないのだろうか。いや、そういう風に考えるのではなく、わたしたちはふたつの世界を手に入れたと考えるべきだ。そして、手話が言語として認められている現在において、逆に口話はどのように布置されるのであろうか。口の動きを読み取るためのテクニックとして生きながらえるのだろうか? このこともわたしたちは考える必要があるだろう。

「LISTEN リッスン」は「人間的、あまりにも人間的な—」、という字幕で終わる。おそらくニーチェの『人間的、あまりに人間的』からの引用なのだけど、二人が印象に残っているのかもしれない。この本には「鎖をつけて踊る」というフレーズから始まる文章がある。これは、あらゆる表現には形式があったとするならば、そこにたくさんの拘束(枠組)を作っておき、そこから克服していく姿を見せていく姿があったということが描かれているパートだった。そんなことを考えながら見ていた。鎖から解き放たれた、聾者たちの、いや、人間の姿を。

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