PDFのパラドックス

今日、Twitterでこんなツイートがあった。

確かに論文をコピーするとき、あとでPDFがあることを知ることはわたしもあって、「あーコピー料金を無駄にしちゃった」とか思うんですよね。そういうことがあって、ciniiやらJSTORやらオンラインデータベースで確認してからコピーするようにはしているけれど、でもそれでもデータベースではなくて、著者個人のページにあったりもするので、なかなかに厄介かもしれない。

ただ、こんなことがあった。聾者の身体について、極めて重要な示唆をしている論文があって、それもかなりのボリュームなのだけども、戦前の雑誌ということもあり、所蔵先が限られていた。それでせっせと所蔵先に行ってコピーしたのだけれども、あとでPDFが出たことを知った。

でも、そのコピーしたい元の論文がどういう論文集に収録されていたのか、それはどういうものだったのか、それを手にしたときの重さや手触り、紙質といった物質性は手に染み込むものがあって、それは簡単にぬけるものではない。だから、PDFでいろんな論文を手にすることができるようになった時代になったとはいえ、いざ引用するときに部分しか見えなくて、研究発表についてその論文についてしか語ることができなくなってしまうというパラドックスも伴ってしまっている。電子書籍もそうだとおもうけれど。

心なしか、PDFでしか見ていない論文は忘れるのも早い。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ:

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です