今日、Twitterでこんなツイートがあった。
図書館の書庫で黄ばんだ書物を見つけてコピーしたあと、同じのがPDFになってネットに置いてあるのを見たときのがっかり感半端ない
— おきさやか(Sayaka OKI) (@okisayaka) June 16, 2012
確かに論文をコピーするとき、あとでPDFがあることを知ることはわたしもあって、「あーコピー料金を無駄にしちゃった」とか思うんですよね。そういうことがあって、ciniiやらJSTORやらオンラインデータベースで確認してからコピーするようにはしているけれど、でもそれでもデータベースではなくて、著者個人のページにあったりもするので、なかなかに厄介かもしれない。
ただ、こんなことがあった。聾者の身体について、極めて重要な示唆をしている論文があって、それもかなりのボリュームなのだけども、戦前の雑誌ということもあり、所蔵先が限られていた。それでせっせと所蔵先に行ってコピーしたのだけれども、あとでPDFが出たことを知った。
でも、そのコピーしたい元の論文がどういう論文集に収録されていたのか、それはどういうものだったのか、それを手にしたときの重さや手触り、紙質といった物質性は手に染み込むものがあって、それは簡単にぬけるものではない。だから、PDFでいろんな論文を手にすることができるようになった時代になったとはいえ、いざ引用するときに部分しか見えなくて、研究発表についてその論文についてしか語ることができなくなってしまうというパラドックスも伴ってしまっている。電子書籍もそうだとおもうけれど。
心なしか、PDFでしか見ていない論文は忘れるのも早い。
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