積み上げられた苺

9月からのシャルダン展の目玉がまさにこの『かごに盛った野苺』(1761年,個人蔵)。 サイトをみたときに、す考えるところ、このシャルダンの静物画は古典主義の最後に位置するものだというが、その例としてとりあげるのがこの絵。ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』ではこう記述される(原書62-63, 訳書98-99)。

彼の描く、積み上げられた野苺の見事な円錐形は、幾何学的形態についての理性的知が人生の多様性とはかなさの知覚的直観と符号しうることを示す記号なのである。シャルダンにとっては、感覚的な知と理性的知とは分かつことができない。彼の作品は、フォルムの偶有的な特異性や社会的意味世界内(within a world of social meaning)でのその位置に関する経験的知の産物であると同時に、演繹的、理性的明晰性(rational clarity)に基礎づけられた理念的構造体(ideal  structure)なのである。だが感覚的経験の直接性は、情景としての秩序を与えられた空間に移し変えられているのであって。その空間の内部では、一つの対象の他の対象に関する関係は、単なる視覚的な見掛けに結びついているというよりも、むしろ、統一された領野内での同型性や位置に関する知に関連している。一つ一つ数えていくようなシャルダン絵画の明晰性や、対象をいくつかの集合や下位集合に纏めて描く彼のやり方は、まさにデカルト的な表(タブロー)の文脈のなかで読解されるべきものなのだ。こうしった形式的な類似性は、単に表面的な意匠をめぐって生じているのではない。それは「物を分離し結合する非量的な同一性および差異性」が広く配分されている、一つの永続的な空間をめぐる類似性なのである。

これをどう読むか。たとえば最初の、「積み上げられた野苺の見事な円錐形」というのは、カメラオブスキュラのような視覚のモデルを比喩しているのだと思 う。カメラオブスキュラのなかを走る光はまさに円錐形として捉えられるからだ。それを観察した科学者たちの身ぶりが「幾何学的形態についての理性的知」な のだろう。 そして、様々な形をとりながら円錐を構成している苺は、たいへん腐りやすい。要するに人生の多様さとはかなさがあるということだ。中谷宇吉郎のような、科学への「限界」とどこか共鳴するような視点がある。しかし、続けてシャルダンの絵は「感覚的な知と理性的 知とは分かつことができない。」とクレーリーがいうところにも注目したいところだ。

 


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