海老原喜之助「殉教者」(1951、東京国立近代美術館蔵)
この絵をみる人は、マンテーニャの聖セバスチャンを思い出す人が多いかもしれない。
海老原の考えは不勉強にしてしらないのだけれども、たしかにマンテーニャをみていると思われるような構図のとりかたをしている。でも、海老原の場合は矢が身体に突き刺さっていないし、頭部が垂れていてすでに息絶えているかのようだ。絵の右下に弓をもち、射ようとする人がいるのは、ポッライウォーロの同じ絵を参照しているのかもしれない。でも、この絵はとても幾何学的な絵だとおもう。向けられた矢とは明らかに別方向の横からやってきた矢が一気に飛んできて背後の柱か壁に突き刺さっている・・・。矢のドス黒さややや夕陽めいた背景の対比が矢の容赦なさをより出しているかのようだ。浮かび上がる身体には絵の具の筆勢で隆起する肉体があって・・・この身体は傷つけられていない。そして、表情は何も見えない。ドス黒い矢が銃弾だとすれば、この人は国家に対して殉教したのかもしれない。つまり、戦争の犠牲者に対して、セバスチャンのかたちを借りながら悼んでいるのではないか。
・・・今度の選挙でも、結果次第では国民の誰かがこのようなセバスチャンのようになるのではないか。そんな危惧がすごくある。
マンテーニャ「聖セバスチャン」(1480頃、ルーヴル美術館)
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