米内山明宏さんのこと

先月末、ろう者の米内山明宏さんのご逝去を知った。
ろう演劇でよく知られている人だが、関心の幅が広いかつ多能な方で手話教室・手話講座の開催、ろう者当事者の活動など、プロデューサー的な役割も担っていた。
米内山さんの演劇や講演も何度か行き、面白かったと思うこともあれば、よくわからないなあと首をひねりながら帰ったこともあった。
 
米内山さんから影響を受けたろう者はたくさんいらっしゃるけれども、わたしはどうかというと話す機会がなかった。会場でお見かけする米内山さんはいつもたくさんの人に囲まれていて、お話しをする機会はついに得られなかった。そういえば、シアターカイだと思うが、何かの舞台後に米内山さんにお声がけをしたことがあった。「ありがとうございました」とお声がけするとスッと頭を下げてわたしの横を通り過ぎて行った。それが唯一のやり取りである。
 
でも、米内山さんから全く影響を受けなかったわけではない。
わたしが米内山さんのことを知ったのは、1996年のことだからかなり昔のことになる。
「21世紀のろう者」と題された講演がそれで、米内山さんは1952年のお生まれだから、当時44歳だ。その映像も所有しているのだが、どうやって入手したのかは忘れてしまった。どなたかから頂いたのかもしれない(覚えている方がいらっしゃったら教えて欲しい)。著作権の関係もあるので、今は静止画で紹介する。
この講演はろう者の権利を拡大していくことやろう者の活動を開拓していくことを強く強調されていたのでよく覚えている。つまりは、身体の歴史なのだ。過去から未来へろう者を託していくことの。
そのビデオを久しぶりに見たが、随所に歴史観の語りが入っていて興味深いものがあった。身体障害者の歴史を進めるには当事者の語りを分析することが重要だと考えていたけれども、こうした歴史観を意識するきっかけが米内山さんの講演なんだろう。
当時、インテグレーション(ろう学校ではなく、地域の学校に通学する人)が多くいたが、ろう者としてのアイデンティティの基盤が弱いという課題があったとするなら、米内山さんのろう者の歴史・コミュティを包括した語りは刺激的だったに違いない。
 
ところで、ビデオを再見していると米内山さんがこう語っているところがあった。
 
「21世紀のろう者はどうなっているんだろう?それは君たちの責務だ。わたしは老人になって「おお、いいね」「いいね」と声をかけてまわるのを楽しみにしている。わたしも元気に頑張っているかもしれないけど。」
 
その言葉の通り、米内山さんは最後までお元気に生きられた。
「21世紀のろう者はどうなっているんだろう?」という米内山さんの発したこの手話が、今、ろう者や手話で話される皆さんを巻き込みながら22世紀に向かおうとしているのを感じている。

ある女性と自由

昨今の黒人や女性の人権、香港における言論の自由といったことについて、思い出したことがある。

日中戦争で戦死したひとたちのなかに、原田愛という人がいる。
「愛」は「めぐむ」とよむ。最終階級は中佐だから高位である。鳥取県出身で戦死後に市民葬が営まれた。原田は陸軍士官学校を出て、少しの間だけ代用教員をした以外は、生粋の軍人であった。原田には遺児が3人おり、長女を久美子といった。

やがて戦争は終わった。父はもういない。

久美子は故郷・県立鳥取図書館に勤務した。そのかたわら『因伯民乱太平記』の翻刻をまとめている。あとがきによれば、鳥取藩に打撃をあたえた一揆についての史料が知られないままでいることを惜しんだようだ。そうして、原文を忠実に翻刻しつつ、補足を上に添えるという丁寧な仕事をされている。そのあと、1953年に京都に転任し、京都府会図書室、のちには京都府立総合史料館に勤務している。
3年後、久美子は1956年には京都府の自由民権運動を大きく推進した天橋義塾の存在を知ることになる。これに関連する業績として『京都府議会歴代議員録』の編纂、天橋義塾をはじめとする京都の自由民権運動の研究を立て続けに出し、知られる存在となった。

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わたしの2010年代

本棚とルイ・ブライユの胸像写真

 

2019年の年末。今年は2010年代を総括した一年であるといえるだろう。

2010年に提出した博士論文が受理され、博士号を取得した。あれから9年が経過したが、2010年代は取得以降の方針を定め、理論と方法を準備する期間であったといえるだろう。最近のアカデミーではよくいわれることであるが、取得することのみならず、「取得したあとの姿勢」も問われている。ちょうど、この2010年の3月は東京大学において博士号が取り消されるという残念な出来事があった。
これは、博士号の取得において、内容のみならず、取得以降の見通しもふくめた評価も必要とするものだったのではないか。それは追い込まれても展開できるしなやかさを備えた問題意識、倫理観、くわえて謙虚な研究姿勢といったこともふくめて提出された博士論文を評価しなければならない時代を告げるものであったように思われる。 Continue Reading →

紙をかき分ける — 村上友晴展「ひかり、降りそそぐ」

村上友晴展「ひかり、降りそそぐ」を見る。

これは絵画というよりは、一人の織りかさなる祈りのように思えた。

村上の祈りのあいだを歩きながら、わたしは点字のことを思い出していた。点字は、裏側から書く言語である。点字板に紙を挟み、針に似た形状の点筆を使って裏側から紙を向こう側に突き出しているからだ。紙を圧延するものである。紙の表面を凸のパターンにすることで、文字を触覚で読めるようにしている。その意味で点字は厚めの紙を必要としている。 Continue Reading →

筒井茅乃とヘレン・ケラー

今日は8月9日。
アメリカのボストンにあるパーキンス盲学校のアーカイヴスにはヘレン・ケラー宛への手紙が多数デジタル化されているのですが、その中にこんな手紙がある。
まさに、今日読むべきものだ。

————–
ヘレン、ケラー先生 Continue Reading →

瑞々しさの基準

宮城県・多賀城市にて。

何かに対する判断基準として、それが瑞々しいかどうか、というのがある。

ある機関で史料調査したときにひょっこりと紛れていた資料と出会った。それは鳥山博志『死の島ラブアンからの生還』だった。とても薄い私家本で、元は潮書房「丸」別冊3号(太平洋戦争証言シリーズ、1986年)を製本したものらしい。この冊子の最後に、鳥山さんはこんなことをした、と年賀状の内容を紹介している。書かれたのはおそらく1980年代であろう。

紹介してみたい。

 

「(前略)昨今、戦争の本質をあいまいにする危険な風潮を感じはじめたからです。国の動きの中にも・・・

憲法第九条は、先の大戦で戦没した二百十万人の日本人が私たちに残した遺書です。私は生ける証言者として、この遺書を守り、故郷を遠く離れて、護国という名目のためにジャングルの土となった人びとの言いたかった訴えたかったことを、その本当の心を代わって語り伝えていきたいと思います。戦没者の鎮魂は、靖国にあるのではなく、戦争の実態を明らかにすることの中にあります。反戦反核の決意を新年のご挨拶といたします。鳥山博志」

 

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京都府立総合資料館と京都盲唖院

京都府立総合資料館の投書箱。
ときどきおもしろい投書がある。
一番笑えたのは「熊のプーさんは爬虫類ですか?」という質問。
答えは「質問の意味がわかりません」というものだった。

京都府立総合資料館。京都府民で知っているひとはどのくらいいるだろうか。京都の資料を取り扱う機関。わかりやすくいえば公文書館でありつつも貸出をしない図書館機能もあり、展示をする博物館機能もある、といえばいいだろうか。その京都府立総合資料館の新館がリニューアル・オープンするため、いまの建物が閉館になる。だからというわけではないのだけれども、2年前あたりからちょくちょく足を運ぶようにしていた。 Continue Reading →

歪んだ柱

広島。長崎。わたしは今年、原爆が落ちた街を訪れた。

いろいろと思うことはあるが、長崎の興福寺というお寺を訪れた時の話をしたい。ここは、実は長崎盲唖院の唯一の遺構が残されているお寺だ。桜馬場に新し い校舎が建てられる前、長崎聖堂で授業をしていた。その遺構がこのお寺にあるのだ。それをひととおり見学させていただいた。その後、美味しいお茶をいただ きながらお住職にお寺の歴史についてお話を伺っていた。お寺の雰囲気からわかるように、黄檗宗の寺院である(長崎と中国・西洋と盲唖教育というテーマもひ じょうに興味深いのだが)。

そのなかで、お住職はあれを見てごらん、と本堂の回廊を指さされた。そこには柱が建っている。

「柱が曲がっているのがわかりますか?」

「ええ、わかります。」

「あれは、原爆で倒れたんですよ」

えっ、と思った。というのはこの興福寺は長崎の市街地の南の方にあり、やや離れているのであったから。原爆による爆風が山を越え、市街地を走り抜けるとともに、建築をなぎ倒していった。

その瞬間、わたしの目にはある柱は、柱でなくなった。これは、まぎれもなく、原爆の永遠の、証言者なのだ。

倒されて曲がってしまった証言者は再び体を起こして、かつての場所から動くことなく建っている。これこそが重要であった。

手形付き・足形付き土製品(大石平遺跡 青森県立郷土館蔵)

惹かれるなあ。

手形付き・足形付き土製品 大石平遺跡 青森県立郷土館蔵
粘土に子供の手や足を押しつけて焼き上げています。中央の手形は2歳前後、左右は1歳ころの子供ものです。子供の成長を願ったお守りとする説などがあります。

source:特別展「北海道・北東北の縄文」展示解説-第4回

來自四方:近代臺灣移民的故事特展

去年12月、台南の国立台湾歴史博物館で移民をテーマにした「來自四方:近代臺灣移民的故事特展」という、近代から現代台湾における移民についてフォーカスをあてた展覧会の写真です。撮影自由でした。
渡航証や戸籍などプライベート性が高い史料が多く使われている。日本ではなかなか難しいテーマ。

冒頭の女の子の写真。史料をよむと、おさげの少女が廈門から台湾の新竹に向かおうとする史料。親に会うために。船で台湾に向かう少女と、ガラスに映り込んだカメラを構えるわたしの姿が交錯している。

光と資料が混じるとき

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思い出すこと。

図書館で資料として明治の新聞を読んでいたら、不意に光が入ってきた。そのとき、新聞に夕陽がかかる。

明治の新聞に対しては、資料という視点をもっている。情報としての資料でしかない。それをみようとすると、所蔵館からはマイクロリールで見るように指定されることがほとんどである。というのも、薄い紙でとても破けやすく保存状態が良くないことが多いから。そうだよな、と思いながらマイクロリールの電球の光で新聞を読むことがほとんどである。原紙=オリジナルを見る機会といえば、大抵は美術館や博物館で資料として出品されるときであるが、ガラス張りのケースに囲まれていて触ることは叶わない。

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大内青巒が理想とする死に方

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keyword:大内青巒/原坦山/ジェリコー

2013年 6月 08日(土) 22時45分56秒
癸巳の年 水無月 八日 乙巳の日
亥の刻 四つ

この令嬢たちはどなた?

史料を読んでいたらたまたまおもしろいものを見かけることがよくあります。その一例として、「商工世界太平洋」(9の2、明治43年)にはこんな懸賞が掲載されています。大きな画像はこちら。

明治期日本における著名人物の写真が上にあり、下に女性の写真があります。この女性たちはどの方の令嬢かをあてよ、というものです。例えば、高橋是清の令嬢はどれか、ということを問うている。
一等は賞金としてなんと10円を得られるといいます。

わかるでしょうか?ちなみにわたしはひとりもわかりませんでした・・・。

2013年 6月 05日(水) 21時51分08秒
癸巳の年 水無月 五日 壬寅の日
亥の刻 二つ

松木武彦『列島創世記』- 岡本太郎がみた火焔土器について

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この本は話題になり、サントリー学芸賞を受賞しておられるため、あちこちで言及が見られます。とりわけ、このブログでは細かな応答までされていますので、ここでは要点のみ述べておきましょう。
まず、この本の指針は3つにまとめられると著者の松木武彦さんはいいます。

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木下直之『股間若衆 男の裸は芸術か』

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会田誠展にわいせつな表現があるということで抗議されたということもあり、性器表現についてどういう概念が働いているかを勉強しようと思っていました。また、2011年に東京国立近代美術館「ぬぐ絵画 – 日本のヌード 1880-1945」が開催されていることも思い出しながら読みたい本です(わたしにとって読書というのは、単に読むのではなくて、問題意識をもって読むということが重要なところと思います)。 Continue Reading →

岸田吟香展カタログを入手せよ

豊田市郷土資料館が特別展「明治の傑人 岸田吟香 ~日本で初めてがいっぱい!目薬・新聞・和英辞書~」を開催しています。さっそくカタログを入手しました。これは1000円で購入することができます。内容は11章で成立しており、岸田吟香の一生と業績を集結したかのような内容になっています。いうまでもなく、岸田は近代辞書学、新聞史(ジャーナリストの歴史)、日本近代美術史(岸田劉生、高橋由一関連)、医学史(精錡水関連)、訓盲院関係において重要です。
訓盲院に関してはとくに目新しいトピックはありませんが、このカタログは岸田の一生を追っているために人物像を知るにあたって不可欠の二次資料といえます。さらに最新の知見も盛り込まれており、必見でしょう。たとえば、
岸田はいくつか日記を残していますが、これらを比較・整理しています。
以下のようにたっぷりと写真を使っており、至れり尽くせりの構成です。これが1000円とは安すぎないでしょうか。

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遠隔地の方はカタログ代1000円に送料340円を添えて現金書留で資料館に送ると購入することができます。2冊購入する場合は送料が450円となります。資料館にたずねたところ、1100部のうち100部ほどしか残っていないので品切れは確実でしょう。
購入される方はあらかじめ資料館に問い合わせておくなど、お急ぎになることをおすすめいたします。

2013年 3月 09日(土) 23時43分11秒
癸巳の年 弥生 九日 甲戌の日
子の刻 二つ

保護中: 関東聾史研究会3月定例会

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大乗寺の儚さ

愛知県立美術館にて「円山応挙展―江戸時代絵画 真の実力者―」が始まりました(2013年3月1日―4月14日)。

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エル・グレコ

elgreco
keyword:エル・グレコ展/ギリシア/クレタ/ウィトルウィウス/ヴァザーリ

2013年 2月 27日(水) 00時13分03秒
癸巳の年 如月 二十七日 甲子の日
子の刻 三つ

加藤由美子「黄金金閣 — 炎上から再建へ」

前のポスト「新聞の挿絵にみる、明治の金閣」と関連しますが、鈴木博之編『復元思想の社会史』のうち、加藤由美子(1972 -)「黄金金閣 — 炎上から再建へ」(148-157頁)の部分を読みました。

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これは、金閣が昭和25年(1950)7月2日未明に炎上する前後の背景と復元されたときの動きを俯瞰した論考です。

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新聞の挿絵にみる、明治の金閣

明治の『京都日報』にあった連載小説より、金閣での捕り物の挿絵があった。
これは金閣をバックにしていて、主人公が屋根から飛び降りていると考えられるところ。ちなみに金閣は1950年に焼失し、1955年に再建しているのでこのイラストは焼失前ということになる。 Continue Reading →

服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(2012)

服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社、2012)を読了しました。

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史料に史料をたたみかけるような史料批判は煩雑になりやすいところですが、「ここにはこう書いてあり、これにはそうあり、このように読みとれる・・・」と平易であろうと務めようとする気持ちが感じられました。
目次はこちらをみてください。以下、気になったところをメモとしてまとめておきます。

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中原中也 最後の詩

中原中也が生前最後によんだ詩。

この写真は、山口市の中原中也記念館にて。
なぜかふっと思い出した。

立命館大学先端総合学術研究科での講演について

1、はじめに
立命館大学にて講演をしてきました。テーマは「明治10年代の京都盲唖院の発展と縮小に関する諸様相」でした。
ねらいは、京都盲唖院に関するトピックをしぼって話をしてほしいということで、京都ということもありますし、現地の方ならば誰もが知る事項についてお話ししようと考えていました。そこで取り上げたのは、

1、明治13年7月に明治天皇が京都盲唖院の授業を天覧したことについて
2、琵琶湖疏水の計画によって、京都盲唖院の経営が厳しくなったことについて

でした。また、参加される方々は院生が中心と思われるため、研究の手法についても知りたいという希望があり、それについても内容を盛り込むようにしました。

ここではどのように準備をし、どのように発表をしたのか、またディスカッションではどのような話題があったのかについて記録しておきたいと思います。

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遠近法の静かな崩壊 — ポール・デルヴォー

下関市立美術館にてデルヴォー展をみる。府中市美術館では「夢にデルヴォー」と「夢に出るぞー」と語呂合わせしたコピーが使われていたけれど、下関ではそのようなものが使われず。どうも地域によって広告のやり方が違うようだ。東京だとあまりにもオーバーフローしているためか、奇を衒うようなやり方がマッチングしているのだろうか。それはさておき、府中市美術館で見逃していた展覧会を下関でみたというわけだ。

デルヴォーについての思い出がある。それはだいぶ前、横浜でのことだった。
みなとみらいにある横浜美術館の常設展示にデルヴォーの絵画がよく展示されている。それで、ある日、シャンパンを飲み過ぎて、少し頼りない足取りで横浜美術館を訪問したことがあり、デルヴォーの絵の前にたったことがある。 Continue Reading →

小さな椅子と文字をなぞること

大掃除を手伝う。

ふと、わたしが子供のときに使っていた椅子があった。かつてはわたしが食べるときに使っていた椅子だけれど、いまは洗濯物を受ける椅子になってしまっている。一種のアフォーダンスといおうか。

座ってみるととても小さい。お尻が納まるかどうかという感じ。もちろんわたしの身体が大きくなったからだけれども、逆にいえば、あのときの小さかったころの自分の身体を想起する。逆行する時間。

夕食のとき、母からおもしろい話をきいた。医学書院から出たインタビューについての話題になったのだけど、そのときに母が言っていたのは、マンホールの話。

わたしが3歳のころ、母に連れられて道を歩いていると、マンホールの蓋が道路にはまっていて、そこには「ガス」と書いてあった。それをみたわたしは、指で「ガス」とずっとなぞっていたという。他にも看板をみかけるとその文字をなぞろうとしたという。いまもなぞるように文字をよみ、なぞることで書き続けているのだから変わらないのだろう。

あの椅子に座っていた小さな身体と現在の身体のあいだで有変と不変のところが明瞭にみえた瞬間だった。

2012年 12月 30日(日) 23時29分27秒
壬辰の年(閏年) 師走 三十日 乙丑の日
子の刻 一つ

なぜ、♥なのか ― ハート型の歴史

クリスマスですね。この日はいつもより少し背筋を伸ばしてあるくと気持ちのよい日です。
ところで、クリスマスというと恋愛がイメージされるようになっていますが、そうはいっても恋愛は常に嬉しいことだけではなく、ときには悲しいことも多くあります。それで、好きだよ、という言葉やメールの最後に「♥」の型をつけることがあります。しかし、どうしてハートが「♥」なのでしょうか。

この話をするにあたり、徳井淑子『涙と眼の文化史―中世ヨーロッパの標章と恋愛思想』が取りあげられる一冊でしょう。

この本のなかで、徳井さんによる心臓の表現「ハート型」の部分をピックアップしながら、ライブラリーラビリンスから皆さんへのクリスマスプレゼントとしたいと思います。
このお話の結論を先にいえば、心臓がハートの形「♥」をとるようになったのは15世紀のタピスリーや写本にみられることであり、それは中世文学における愛の表現と分ちがたい関係であるということです。

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京都市営バス204をめぐる旅

京都での調査が終わった。
京都府立盲学校で毎日朝から夕方までずっと手を動かして・・・。昼休みは何も考えずにいた。調査をひととおり終えたことで気分転換にピンボールしたかったけれど、ちょっとぐったりしているので行かず。

わたしが通っていた京都府立盲学校は千本北大路の交差点近くにあって、わたしは204のバスを利用している。一番の理由は便利だからだけど、前からこのバスのルートが好きで、同時になんともいえないセンチメンタルな気持ちになる。この204のルートは以下のようになっている。map

wikipediaより引用

ごらんのように204は中心にある京都御所をぐるりと囲むようなルートといえばいいだろう。時計回り、反時計回りの両方が存在する。本数も多く、観光向きといえるかもしれない。

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明治村訪問記

今日は愛知県犬山市にある明治村へ。

明治村は、建築家・谷口吉郎と名古屋鉄道・土川元夫が1961年にスタートさせた事業で、背景には明治文化を維持することにあるという。1965年にオープンし、現在にいたっている。初代館長が谷口だった。
約100万平方メートルに明治時代の建築を中心を展示しており、とくに、1963年に西郷従道の邸宅を移築したのをはじめとし、近代建築を学ぶものにとっては必ず訪れなければいけないところになっている。日曜日に訪問したが、親子、若者、カップルと多様な雰囲気。混雑している様子はまるでない。ゆっくりみてまわることができる。

どの建築も一見の価値があるけれども、絶対に外せないのは帝国ホテルではないか。フランク・ロイド・ライトによる日本唯一の建築。そういうわけで、明治村は近代に関心のある人なら訪れる価値のあるところだ。そこで、明治村についてメモをしておきたい。

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川村清雄の和魂洋才

目黒区美術館の「もうひとつの川村清雄展」にいく。目黒駅から歩いていくのだけど、春に行くと桜がきれいなんだよね。このあたりは。
川村は江戸東京博物館と目黒区美術館で開催というこれ以上考えられないタイミングで回顧展が開催されていた。この二館で開催されたのはたまたまとは思えない、生年160周年だし、そのためなのだろうか。江戸東京では『形見の直垂』(上の画像)が展示されていた。勝海舟の胸像を見つめようとしている女性が勝との微妙な関係を思わせる作品。

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須田悦弘と椿

追記:日記の椿図屏風というのはこのサイトにある写真がそうだ。

2012年 12月 14日(金) 00時17分01秒
壬辰の年(閏年) 師走 十四日 己酉の日
子の刻 三つ

国への殉教

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海老原喜之助「殉教者」(1951、東京国立近代美術館蔵)

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カルロ・クリヴェッリ「聖ガブリエルの霊視」

カルロ・クリヴェッリ「聖ガブリエルの霊視」(部分)(1489頃、ロンドン・ナショナルギャラリー)

まだみたことはない。この絵の右上にマリアと幼いイエスのふたりを金で包み、光を線で表現するという方法がつかわれている。光の表現は大きく分けて線と点があるよね、点の歴史とからめて考えられるところ。日本でいえば截金だったり。 Continue Reading →

明治の「ミロのヴィーナス」

あるスクラップブックを調査したとき、ミロのヴィーナスに関する記事が切り貼りされていた。書き込みから日付は明治28年9月25日と思われる。なんの新聞・雑誌かはわからないが、ルビがふられていることから、いわゆる小新聞といわれる類の新聞に掲載されたものだろうと思われる。大きなサイズはこちらをどうぞ。

あいにく、わたしはミロのヴィーナスがどのように研究されたのかは具体的には知らないが、明治に紹介されていてもまったく不思議ではない。でも、ミロのヴィーナスをめぐる手の再現の問題やさらに周辺にある類似作もまとめて11の彫刻が明治時代にすでに比較参照して紹介された記事を目にするとは思わず、面白く読んだ。
“Venus Medeci”はウフィツィかとおもったけど、ウィーンなど各地にもあるのか。まあ、ローマン・コピーだしね。「フオンラーベルグ」とは、フルトヴェングラーのことなんだろうか。あと、盾を持っているヴァージョンははじめて見たな・・・。ヴァティカンの髪をもっているものなど、木版がけっこういい感じだね(このとき、まだ写真の技術はあっても、それを印刷する技術はまだ確立していなかった)
ここで一番おもしろいのは、もっとも知名度の高いはずルーヴルのものが真っ先に紹介されていないことにあるとおもう。最下段の12図がそれになっている。

書誌情報をご存知の方はご一報頂けると幸甚です。

2012年 12月 02日(日) 20時14分51秒
壬辰の年(閏年) 師走 二日 丁酉の日
戌の刻 三つ

講演の案内

立命館大学の生存学研究センターからお呼びいただき、「明治10年代の京都盲唖院の発展と縮小に関する諸様相」という講演をさせていただくことになりました。以下、案内させていただきます。

京都盲唖院にかぎらず、周辺とどうからみあっていたのかということに注視したいなとおもっています。どうぞよろしくお願い致します。

(画像は、『京都府区組分細図』(明治12年)より京都盲唖院が京都中学(現:京都府庁)の右下にあることが示されている地図。ほんとは位置が少し微妙ですが)

以下、本文になります。

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表象文化論学会第7回研究発表集会

11月10日に、表象文化論学会第7回研究発表集会に参加しました。7月は発表者として参加しましたが、今回はオーディエンスとして。

わたしが学会に参加したらば、次の日には忘れていることがあるかもしれず、そうならないようにと記録しておきます。なお、ここにあるものは当然ながら個人の視点であり、学会公式のコメントではありません。 さて、わたしが参加したパネルは以下の2つになります。以下、パネルについて感じたことを記します。
また、ミニシンポジウムにも参加しましたが、これについてはまたの機会にします。  Continue Reading →

彼女にはわたしのかげが外国人のように…

京都でかげうつし展をみる。

この展覧会は、京都市立芸術大学ギャラリー(KCUA)であっていたのだが、1、2階をつかった展示になっていて、1階が入口になっている。入るといきなり松村さんのポルノマガジン。
ああ、そうだ・・・。ここに入ったときに、女の子が座って監視スタッフをしていたのだが、荷物をもっていたので、「お預かりします」と話しかけてきたので、「はい」と言った(つもり)で、荷物を預けて、交換札を受け取る。ちなみに加納俊輔さんの作品が配置されているところ。

そのあとがおもしろかったんだよね。荷物をあずけるところはインフォメーションにあるんだけど、そこにチラシが置いてあることに気付いて、展示をぬけだしてそのチラシをみて戻った。そしたら、彼女が何か話しかけてくる。彼女の口を読み取ろうとすると・・・日本語じゃない。英語なのだ。英語で話しかけつつ、近づいてきたので、思わず身構えてしまった。

これは、わざとである。
わたしのことを外人だと思い込んでいるらしいことはわかった。アジア系の英語を話す人と思ったのだろうか。英語で返事しようかなとしょうもない悪戯心が芽生えたけれども、まあ、ここはそういう所ではない。彼女にはわたしのかげが外国人のようにうつされているようだ。心のなかで「フフッ」と笑ってしまった。
加納さんのぐしゃりとひねられたオブジェがそんなやりとりの背景にあった。

そんなふうにわたしは無言で反応したり、声をちょっと出しただけで外国人かな?と思われることがある。

さて、「かげうつし」について。高橋耕平さんの作品は知っていたけれど、こうして「かげうつし」のテーマで《Sight of the blinking. 2》はスクリーンに近づくと自分の影が一緒にスクリーニングされるところがとても重要なところだと思う。ビデオをプロジェクターで投影するという形式のありかたの歴史性についてもふみこんだら、おもしろかったかもしれないとも思った。もちろん、ストイキツァ『影の歴史』も参照されていたけど、そのあいだにはおそらく、OHPの歴史(というか、3Mの歴史)があるべきで、これをここでも積極的にやってもらいたかったかなという欲も出てきたよう思う。

みてまわり、かの女の子から荷物を受け取る。
「ありがとう」と手話で表したら、悟ったようだった。わたしが外国人でもなく、日本の聾者であったことを。

2012年 11月 08日(木) 23時57分30秒
壬辰の年(閏年) 霜月 八日 癸酉の日
子の刻 二つ

インタビュー・ウィズ・トモタケ キノシタ

『訪問看護と介護』の2012年8月号に掲載された、わたしの記事をアップします。以下よりPDFでダウンロードできます(4.5MB)。

「木下知威さんに聞く 新たなケアは「違い」の認識から さまざまな違いが共にあった京都盲唖院を追って」『訪問看護と介護』 17(8) 、p645-651、2012年8月

ただ、編集室の校正ミスで以下の点に違いが生じていますので読み替えてください。

648頁の中段、左から4行目「でなくと寄宿舎」→「でなく寄宿舎」
648頁の下段、左から6行目「部屋」→「教室」
651頁の下段、右から10行目「うことを続け」→「うことを続け、」

このインタビューそのものは2011年12月のクリスマス頃、古川(古河)太四郎についての史料調査に取り組んでいた、とても忙しいときに実施されました(だからセーターを着ている・・・)。ほとんど寝るひまもないという時期だったことを懐かしく思い出します。

なお、この記事の公開について医学書院『訪問看護と介護』編集室からの許可を得ていることを申し添えます。
感想をお寄せいただけると嬉しいです!

どうぞよろしくお願いいたします。

なぜ、わたしは投入堂を目指したのか?

先日、NHK鳥取のディレクターから「2007年に三佛寺の投入堂の特別拝観のときを詳しく教えてほしい」というメールを頂いた。
特別拝観というのは三徳山が開山して1300年を記念して、米田住職の息子さんが企画されたもの。これは一般の方が投入堂そのものに入るということで、350人ぐらいの応募があったらしい。わたしはこのなかから選ばれた1人だった。2007年11月14日に行われた。
そういうご縁があって、いろんな方から「どうして登ろうとおもったのか?」という質問を頂くことがある。その都度答えてきたのだけれども、さきほどのNHKの方も同じように聞いてこられた。なので、この機会にLLでも答えておこうとおもう。つまり、どうして登ろうとしたのか — この特別拝観に応募したわけは? Continue Reading →

ギャンブラー・シャルダン

keyword:シャルダン展/遊び/ホイジンガ

2012年 10月 23日(火) 23時53分20秒
壬辰の年(閏年) 神無月 二十三日 丁巳の日
子の刻 二つ

 

楠木正成像

出光美術館から楠木正成像がみえるのだけど、これまで訪問したことがなかった。シャルダン展を鑑賞したので、その前にこの像に立ち寄ったときの写真。思ったより小さな像だった。

この像については、高村光雲も『幕末維新懐古談』において、「楠公銅像の事」として取りあげているのが知られるけれども、金子静枝がスクラップブックに記事を集めていたので訪問しなければと思っていた。どうやら、わたしはまだ金子静枝にとりつかれているようだ。

台座に設置されている銅板には以下のようにある(旧字は新字にしてあります)

自臣祖先友信開伊
予別子山銅坑子
孫継業二百年亡
兄友忠深感国恩
欲用其銅鋳造楠
公正成像献之闕下
蒙允未果臣継其志
董工事及功竣謹献
明治三十年一月
従五位臣住友吉左衛門謹識

像の前に立っているのはわたしだけれど、最近、こんな白っぽいファッションをすることがある。まぶしいせいか写真では白にみえるけれど、本当は軽いストライプの入ったパンツをはいている。

2012年 10月 20日(土) 00時13分30秒
壬辰の年(閏年) 神無月 二十日 甲寅の日
子の刻 三つ

日本盲教育史研究会 第一回研究会

・日時、会場の環境
10月13日土曜日に日本盲教育史研究会の設立総会および第一回研究会が日本点字図書館にて開催されました。3階の多目的ホールでしたが、WifiはFONだけが入っていたため、実況は不可能でした。このホールの床は斜面になっていません。

・出席者について
出席者は80名、テーブルに椅子を3脚ずつ並べる形式。弱視と手話通訳を必要とする人は前方に席が準備されていた。手話通訳について準備したのは岸事務局長と木下だが、スクリーンと講師が窓側に座るために、手話通訳も窓側に確保してもらう形式になりました。

・来場者について
八王子盲学校の座間幸男校長、北九州盲の吉松政春校長など現役校長がいらっしゃったのをはじめ、OBと現役の盲教育関係者が多いように見受けられました。他、森田昭二さんなど盲の方々も多くみえられました。また、手話通訳もついたので、聾史学会のメンバーが参加しました。

・設立総会について
浜松視覚特別支援学校長をされておられた、伊藤友治さんによる司会で会が進行しました。
第一部の設立総会では、まず司会の伊藤さんが議長に選出され、筑波大学附属視覚特別支援学校校長をされたこともある、引田秋生先生を会長とする役員がスムーズに選出されました。
その際、この会が設立されたときのきっかけについて説明がされ、それによると、2010年にエロシェンコ生誕120年のつどいがあり、関係者が集まったのが研究会の契機につながったとのことでした。わたしもこのつどいの存在については聞いていました。

そのまま第二部の研究会に移行しました。
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『人間の条件』における「墓碑」

ハンナ・アレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫)を読んでいると、プロローグでこんなくだりがある。

(1957年、スプトーニク1号が打ち上げられたあと)
「(前略)時の勢いにまかせてすぐに現われた反応は、「地球に縛りつけられている人間がようやく地球を脱出する第一歩」という信念であった。しかし、この奇妙な発言は、あるアメリカの報告者がうっかり口をすべらしたというものではなく、二十年以上前にロシアのある大科学者の墓碑名に刻まれた異常な言葉と期せずして呼応していたのである。そこにはこう書かれてあった。「人類は永遠に地球に拘束されたままではいないであろう」。(ちくま学芸文庫、10頁)

人と地球の関係が端的に示されており、まさにこの本にふさわしい幕開けといえるところだが、大事なところが隠されている。
それは、このロシアのある大科学者とは誰で、その墓というのは、どこにあるのかということである。そこで、上記の文章の後半部について、原文(second edition, Univ. of Chicago press, 1998)にはこう書かれている。

“And this strange statement, far from being the accidental slip of some American reporter, unwittingly echoed the extraordinary line which, more than twenty years ago, had been carved on the funeral obelisk for one of Russia’s great scientists: “Mankind will not remain bound to the earth forever.”

つまり、ロシアの有名な科学者の”funeral obelisk”には”Mankind will not remain bound to the earth forever.”と書かれてあるというわけだ。実際にはロシア語なのだろう。

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ハモンド『カメラ・オブスクラ年代記』

前ポストでは、カメラ・オブスクラ・ポータブルの制作について取り上げました。今日はこのカメラ・オブスクラに関する書籍として必須とされるジョン・H・ハモンド『カメラ・オブスクラ年代記』を読みました。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください。

これについては、すでにネット上で書評が出ています。とくに松岡正剛さんによる書評はカメラ・オブスクラの広がりを大いに含蓄した内容です。というか、これはあの千夜千冊の90夜なのですね。相当早い時期に取り上げられている本です。

この本は必ずしもハモンドの考えを記述したというよりは引用してきたり、調べてきたものを配列しているような感がぬぐいきれませんが、それでもなおカメラ・オブスクラという人の社会に緩やかに広がっていった技術がどういうものであったのかよくわかる本です。

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カメラ・オブスクラ・ポータブル

メディア論、視覚文化論、美術史、写真史について語るとき、どうしても外せない概念として「カメラ・オブスクラ」があります。かの名著ジョン・H・ハモンド『カメラ・オブスクラ年代記』が入口となる書籍といえますが、カメラ・オブスクラの構造を理解するならば、自分で作ってみるのが一番です。

自作については佐藤守弘先生のブログで紹介されています。これがもっとも簡単な方法といえるでしょう。実際、ここを参照する人は多く、わたしもそのひとりでした。
しかし、カメラ・オブスクラが大きくなると持ち運びが難しいという問題があります。かといって小さくするとあまり気分を味わえないという問題もあるように思われます。
そこで、このカメラ・オブスクラを他の場所で試したり紹介するために、持ち運びも簡単にできるタイプを制作してみました。
名付けて、プレイステーション・ポータブル(PSP)ならぬ、カメラ・オブスクラ・ポータブル(Camera Obscura Portable:COP)といえばいいでしょうか。

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扇言葉

表象文化論でご活躍されている、小澤京子さんがフラゴナールを模したスカートの元ネタは何だろうとツイートしていた。こんなスカートだ。

それはわたしがかつて、ニューヨークのフリック・コレクションにある、「フラゴナール・ルーム」でみた「愛の進展:出会い」のことだ。
スカートに引用するとどうなのかなあと思いながらみていたけど、悪くないんじゃなかろうか(悪趣味?)。確かに、フラゴナールはゴスロリやロリータと相性がよい画家だと思う。フランソワ・ブーシェは女体が輝いているような雰囲気があるけれど、フラゴナールはいくぶんが現実を見つめようとしているように感じられた。

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ふたりの行く先

keyword:新聞記事/六道/賽の河原

2012年 8月 12日(日) 23時31分32秒
壬辰の年(閏年) 葉月 十二日 乙巳の日
子の刻 二つ

同じ絵なのに、違う


ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399/1400 – 1464)による、「若い女性の肖像」(1430頃, Gemäldegalerie, Berlin)というもの。どちらも同じ絵だけれども違うものにみえる。具体的には左のほうが白みを帯びていて、右は経年変化のような黄ばみがみえるようにもみえる。撮影条件、パソコン上の処理、修復の有無によってこうも違うものになってしまっているのだろう。でも、「どちらが正しいの?」ではなくて、この違いそのものをみることがとても大切で、たとえば資料をみるときやごはんを食べるときでさえ、そういうことがあると思う。

例えば、わたしはよく行くカフェがあって、それは1人でしか行かないようにしているれど、すごくおいしいケーキがあるんですよね。それをカプチーノと一緒に頼むのがささやかな楽しみになっている。ところが、ある日それは普段と違った。生地がほんのすこし湿っぽかったのだ。それで帰り際に「今日のケーキ、生地がいつものと違ってパリパリしていなかったね。」とスタッフのお姉さんに伝えたら「そうなんですか?!厨房に伝えておきます!」と返してくれた。

資料だって、デジタルでみるものと実際にパラパラとめくるものは違う。とくに、明治の印刷物はザラザラした紙に活版印刷による凹凸が混じっていて、文字そのものがそこにあることがわかるように・・・。

きりがないけれども、同じようにみえるものが違ったものになっている。モナリザだって毎日「同じはず」だなんてない。絵もまた何かの条件でこんなに色合いが違ってしまっている。
わたしはあいにく、これを見た事がないのでどう見えるのかはわからないけれど、しかし目の前にあるものが絶対だと信じないことだな。じゃあ、何を信じたらいいのと聞かれたらこう答えようではないか。変わり続けることを信じろ、と。なあに、怖くないよ。

2012年 7月 21日(土) 21時54分48秒
壬辰の年(閏年) 文月 二十一日 癸未の日
亥の刻 二つ

耳に手をあてる

ジョシュア・レイノルズの自画像がgoogleで細かくみられるようになっていた。もとはといえば、tateのコレクション。

これはまだ見たことないですね。手を耳にあてているという身ぶり、よく聞こえないのか、あるいは耳を澄まそうとしているのか。しかしおもしろいのは、わたしが同じ身ぶりをすると、自分が滑稽にみえるような気もする。

Le bienheureux Ranieri délivre les pauvres d’une prison de Florence

ルーヴルで見て以来、惚れた絵の一枚Sassetta(サセッタ)による、福者ラニエリがフィレンツェの牢獄から貧者を解放しているシーンを描いたもの。サセッタについてはバーナード・ベレンソンなどいくつかの研究書が出ているし、“Sassetta: The Borgo San Sepolcro Altarpiece (Villa I Tatti) “というのが最近出ているけど、まだ持っていない。以下、ルーヴルからの情報をそのまま貼付けておく。

Le bienheureux Ranieri délivre les pauvres d’une prison de Florence
Entre 1437 et 1444  H. : 0,43 m. ; L. : 0,63 m.

Elément de la prédelle postérieure du polyptyque de Borgo Sansepolcro.
Le bienheureux Ranieri vient délivrer quatre-vingt-dix pauvres gens, retenus dans une prison de Florence, qui lui avaient écrit pour lui demander de l’aide.

パネル2の仕掛けについて

表象文化論学会の第7回大会のパネル2「結晶化する物質──切り貼りにおける時間と固有性」のように、学会の大会では1つのパネルを組んで、司会を1人(コメンテーターを兼ねることは可)、3人が発表する構成にすることが定められている。それでパネル2を構成したわたしは、以下のようにダイアグラムを小松さんと田口さんとつくりあげた。ここではそれを記録しておきたい。

まず、パネル2が採用されたときに三人で顔合わせをしたいところだったが、わたしが関東、おふたりが関西にいるためにSkypeでそれぞれの研究構想をみっちりと話し合っていた。そのとき、わたしがSkypeで二人の話を咀嚼しながらメモしていたのが下のものになった。
これがもっとも初期のスケッチ。

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表象文化論学会第7回大会 パネル2について

表象文化論学会の大会が近づいてきましたので、パネル2の概要をお伝えします。
どうぞよろしくお願いいたします。

タイトル:「結晶化する物質 ― 切り貼りにおける時間と固有性」
日時:7月8日(日)東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム
10:00-12:00
司会/コメンテーター:大橋完太郎(神戸女学院大学)
パネル組織者:木下知威
発表者:木下知威、小松浩之、田口かおり Continue Reading →

シンポの種明かし

「アビ・ヴァールブルクの宇宙」で は、何か特別な仕掛けがあると予告されていたけれどもそれは、ほぼ原寸大(原寸より少し小さい)のパネル構築だった。全てのパネルではないが。写真を拡大しているだけだが迫力がある。ただ、左端のパネル45だけ、図版をとり、グリップもできるだけ同じものを使い、カラーであることを試みている。しかし、カラーになるとヴァールブルクが強調したい身ぶりについて見えにくくなるという解説が田中先生によってされていた(裏返していえば、モノクロにすることは大きな意味があるということ)。

下はパネル45の拡大写真。より記憶が鮮明になった気持ち。

「様式」の危なっかしさ


ベーリックホール(昭和5年(1930)J.H.モーガン設計)

思いつくままに。

美術史や建築史において、「様式」という言い方をしている。それは「あるひとつの型を様式と定義し、作品や建築といった人たちが作り上げてきたものを内包する概念」とわたしは理解している。たしかにこのやり方は、歴史における時間を巡る方法として有効な概念である。
その区分の方法は、例えば時間で区切るものであったり、人物、何かの事件で区切ることもあろう。わたしが書いた京都盲唖院の博士論文でも、仮盲唖院から第四期盲唖院まで、京都盲唖院の空間に大きな変容があったという基準のもと、5つに分類している。これは5つの様式を作り出しているともといえる。
でも、この様式によって歴史を理解することのは裏返してみれば危ない概念だと思う。要するに枠にはまってしまう。たとえば、ブルクハルトがペトラルカ(1304-1374)のことを「近代人」だと評した。その近代というと、現代の前だから14世紀の人であったペトラルカを近代というと・・・と様式に囚われていると混乱してしまう(ルネサンスは近代のはじまりなのか、中世のなかにあるのかという話もあるけれど、ここでは込み入らないことにして・・・)。他にもゴシックやバロックに関する定義をもとに、その歴史に落としこむということは避けなければならない。それはまるで自ら歴史という名前の監獄に入っていくようなことではないかと感じる。様式を否定するつもりはまったくないけれども、あくまでもひとつの物差しに過ぎないというふうに考えておきたい。

メガシンポ「人知のいとなみを歴史にしるす」

7月6日から7日にかけて立教大学でメガシンポ「人知のいとなみを歴史にしるす 中世・初期近代インテレクチュアル・ヒストリーの挑戦」が開催されます。プログラムはここにあります。 Continue Reading →

ボッティチェッリの内奥の本質を、「優美なナイーブさ」とか「魅惑的な憂愁」として公衆の愉しみに供するのは、現代の感傷的な甘言のなすところである。

ボッティチェッリが身につけていた気質とは、自己本位の誇示のための優雅な衣服のようなものではなく、締めつけられた覆いのようなものであり、思索する芸術家の、いまだに未熟な手段を用いて、それを開け拡げること、これがボッティチェッリの生涯にわたる仕事の自覚的な目的であった。

アビ・ヴァールブルク

もっと気軽に、美術館へ!

テートブリテンをキュレーターのGus Casely-Hayfordさんが歩く映像。ラフなファッションで何も持たずに絵と絵のあいだを飛んでゆく。こういうふうに美術館を歩き回き、会話していくのがいい!作品と格闘するのも、戯れるのも。

ラファエロの時計

2013年にラファエロ展があることがアナウンスされたので、パテック・フィリップ・ミュージアムの動画を。この動画のおわりに、ラファエロの “La Madonna della Sedia” をモデルにした懐中時計が紹介されている。円という絵をそのまま時計に採用しているところが憎い。他にもねずみや昆虫をモデルにした自在置物のようなギミックや鳴く鳥、綱渡りもあり、時計制作はそういうからくりと親しいことがあらためて伺える動画。これらの装置をみていると、カメラオブスキュラ以後、映画以前の「映像」のようにも感じられる。

ヴァザーリとパノフスキー

いま、ヴァールブルクのボッティチェッリ論を読んでいて思ったのだが、この関連書籍のひとつにディディ=ユベルマンの『イメージの前で』がある。
これは、美術史の発明者であるヴァザーリとその末裔で改革者であるパノフスキーのふたりが中心に論じられているもの。16世紀の画家でもあったヴァザーリと19世紀から20世紀にかけての美術史をリードしたパノフスキーというわけだけれど。 Continue Reading →