下関市立美術館にてデルヴォー展をみる。府中市美術館では「夢にデルヴォー」と「夢に出るぞー」と語呂合わせしたコピーが使われていたけれど、下関ではそのようなものが使われず。どうも地域によって広告のやり方が違うようだ。東京だとあまりにもオーバーフローしているためか、奇を衒うようなやり方がマッチングしているのだろうか。それはさておき、府中市美術館で見逃していた展覧会を下関でみたというわけだ。
デルヴォーについての思い出がある。それはだいぶ前、横浜でのことだった。
みなとみらいにある横浜美術館の常設展示にデルヴォーの絵画がよく展示されている。それで、ある日、シャンパンを飲み過ぎて、少し頼りない足取りで横浜美術館を訪問したことがあり、デルヴォーの絵の前にたったことがある。
それは、このページの上にある「階段」(1948)という絵で、階段の上に女性が立っているものだ。「ああ、デルヴォーか・・・」とつぶやいたとき、わたしの視線は女性にあって、そのとき・・・デルヴォーが構築した遠近法がわたしのか弱い視線によって崩壊したのだった。
どういうことなのか。この絵にあるこの居室とも電車のなかともわからぬ空間には、床板があって、それが遠近法的な効果をだしているし、屋根にあるガラスのグリッドもまた同様だ。わたしが軽く酔っていたからだとおもうが、その瞬間、それらがぐにゃりと崩壊してしまった。ここで気づいたのだけれども、遠近法とは、定められた図法によって成立しているといわれるけれども、心の保ち方や意識のあり方によってこうもあっさりと法則が壊れてしまうのだなと思ったことがあった(本当は、飲酒して美術館を訪問するのは良くない)。
そのことを、ジョルジョ・デ・キリコで博士論文を書かれた阿部真弓さんと話したら、くすくす笑っていたことを覚えている。
さて、展覧会へ。デルヴォーは幻想の画家とかよくいわれるとおもうが、その土壌はとても強いことがよくわかるような内容だったように思う。デルヴォーが建築を学ぶということは、遠近法をはじめとする図面作成の技術を習得する機会に恵まれたはずで、建築をよくトレースしたような下絵がいくつかあったし、街並をみると、床やタイルのラインに遠近法があからさまにみえるような感じ、誇張されているかのような感触すら抱いた。もしかしたら、建築を断念した、デルヴォーのコンプレックスなのかもしれない・・・というと深読みし過ぎだろうか。
かといって、そういうものだけではなく、1923年に描かれた港の絵画は船がゆらゆらと揺れているところと、いまにもこぼれおちてしまいそうな筆運びもあって、デルヴォーは描き方の幅を押し広げようとしているようにも感じられた。
タム(デルヴォー夫人)の肖像画をみると、丹念にスケッチしているものもあれば、眼が肥大化しているものもあったり、これをみたときにプリクラでいう、デカ目のような感じを受けてしまう。一気にイメージを押し広げるのではなくて、「正しく」捉えた像を少しずつ変えていくような慎重なプロセスがあった。
カタログを読むと、1927年にポール・ギヨームが聾にてキリコの絵をみたのが「沈黙と不在の詩」「出発点」だという。1932年にはスピッツネル美術館であの「眠れるヴィーナス」を見、1953年にはレオナルド・ダ・ヴィンチに関する討論会に参加したということが書いてあるのが目をひいた。
2013年 1月 04日(金) 23時59分00秒
癸巳の年 睦月 四日 庚午の日
子の刻 二つ
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