前のポスト「新聞の挿絵にみる、明治の金閣」と関連しますが、鈴木博之編『復元思想の社会史』のうち、加藤由美子(1972 -)「黄金金閣 — 炎上から再建へ」(148-157頁)の部分を読みました。
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これは、金閣が昭和25年(1950)7月2日未明に炎上する前後の背景と復元されたときの動きを俯瞰した論考です。
足利義満の遺構として明治以降まで残されたものは金閣(舎利殿)だけであるといいます。
これを放火した林承賢の生い立ちは事件を引き起こした背景については、水上勉『金閣炎上』において詳しく調べられているといいます(わたしの関心をひいたのは、林が吃りであったということだ)。また、林の父は僧で、舞鶴の北東部、成生という地で住職をしていましたが、林が13歳のときに肺結核のために亡くなったといいます。父方の実家がある舞鶴東方の安岡の共同墓地に母とともに眠っているといいます。母は事件後に保津峡に身を投げ、林も精神病院で亡くなりました。加藤は現地を訪問したものの、その墓をみつけることができなかったといいます(wikipediaには林の墓があると記述されていますが、詳細は不明)。
さて、金閣をどう復元するかということについて、明治時代に行われた解体修理のときの図面と焼け跡の調査から判明した部分をもとに、創建当初の形態に復元する方針が採用されたといいます。金閣は国宝でしたが、炎上により国からの補助が得られないために寺院側は資金集めを行い、総額約3000万円をかけ、昭和30年9月に竣工したといいます。
そこで、注意されるのは復元前後の違いは何かということになります。まとめると以下のようになります。
第三層:高欄と腰組を黒漆塗りから金箔押し。
第二層:高欄以外はすべて黒漆塗りから床と天井以外を金箔押し。東西両方にあった格子窓は板壁に変更。
第一層:北側にあった開口部は土壁に変更。
このような変更は、「閉鎖的になった」と加藤は指摘します。また、第二層と第三層はすべて黄金になったのですが、しかし、第三層から庭園を眺めることが不可能になったといいます。
また、前ポストでわたしが言及した鳳凰の向きが西から南になっていることを述べたのですが、154頁にある金閣の古写真によると、鳳凰は南を向いていました(木村貞吉『日本建築図集 下巻』大正4年、木葉会)。そこで他の写真を確認すると、確かに南を向いていました。
碓井小三郎『花洛林泉帖 上』(1910年、芸艸堂、国会図書館蔵)
では、なぜ新聞の挿絵では西を向いているのでしょう?横に向けることで鳳凰の形をよく示したかったのか、あるいは挿絵が間違っている可能性がありそうです。
さて、この復元について指導したのが京大の建築史家・村田治郎で、村田は「再建金閣」『鹿苑』(昭和30年)を書いています。しかし、村田の復元については反論が提出され、復元については異論が多いといいます。
そして、加藤は最後に昭和23年に庭園の修理を担当した久垣秀治は林と朝夕をともにしていますが、『京都名園記 中』でこのように語っているといいます。
「・・・彼が金閣に放火した心情は小説などに書かれた内容とはまったく違ったものであった。・・(中略)・・彼には彼としての筋の通った主張があった。・・(中略)・・文化財を抱えた京都の寺院が「金閣炎上」をただの犯罪として見ないで、少年が法律を犯してまで乱打した仏教界への警鐘を謙虚に受取ってもらいたい。観光、観光と、ただそれのみに明け暮れする京都の寺院は、声の無い少年の抗議に深く耳を傾け、慚愧し、宗教機関としての本来の面目を取戻し、道場としての姿勢に立戻ることを願うのみである。・・(中略)・・金閣が再建されても、北山殿の舎利殿は再び甦らない。」
わたしが同書を引用し、中略部分を「復元」すると以下のようになります。下線部が省かれた部分です。
「私が「九山八海石」を据え直した翌々年、昭和二十五年(一九五〇)七月二日、寺僧の放火により北山殿唯一の遺構、舎利殿金閣は炎上した。事件を起した少年は、私が庭園の整美を行った際、伐り落した樹枝などを運搬する作業にも卒先(ママ)参加した純情な少年であった。彼が金閣に放火した心情は小説などに書かれた内容とはまったく違ったものであった。
世間知らずの少年の行動は思いがけぬ悲劇にまで発展したが、彼には彼としての筋の通った主張があった。庭園修理中のしばらくの間ではあったが、彼と朝夕を共にした私には当時の切羽詰まった彼の心情が理解出来る。しかしここで彼の行動の是非をのべるつもりはない。それよりも文化財を抱えた京都の寺院が「金閣炎上」をただの犯罪として見ないで、少年が法律を犯してまで乱打した仏教界への警鐘を謙虚に受取ってもらいたい。観光、観光と、ただそれのみに明け暮れする京都の寺院は、声の無い少年の抗議に深く耳を傾け、慙愧し、宗教機関としての本来の面目を取戻し、道場としての姿勢に立戻ることを願うのみである。現代に最も欠如し、求められている精神文明の復活。それは指導者、特に宗教家の心と生活とから始められねばならない。
金閣が再建されても、北山殿の舎利殿は再び甦らない。ただ閣前に浮ぶ須弥山、九山八海石のみが、日本はおろか、唐天竺までも呑吐しようとする義満の肝っ玉を静かに示している。」(「一 鹿苑寺の庭」『京都名園記 中』259-260頁、誠文堂新光社、1968年)
注:加藤は1988年度出版の同書を参照したことが参考文献一覧よりわかりますが、この版は出版されていないので、加藤の間違いなのではないかと思われます。
久垣の述懐は、少年の気持ちを代弁しているかのようで、それは観光のみに走っている寺院の姿勢を強く批判しています。思い出すのは、三仏寺の投入堂ですが、あれは厳しい道を乗り越えてこそ対面することができますが、世界遺産に指定されるためにもその参道を整備するという話があるそうです。これについてどうするのかという問題とも連結しているし、香住にある大乗寺客殿もまた応挙一門の障壁画をどのように展覧してもらうかという、観光と宗教のはざまで揺れ動いていたように思います。
さて、冒頭にある挿絵は、『都林泉名勝圖會巻之四』(武庫川女子大学蔵)より引用したものです。これをみると金閣は金閣としてあるのではなく、庭という大きなうねりのなかに巻き込まれているように思えます。金閣と庭。わたしのなかには次のテーマが浮んできています。
2013年 2月 07日(木) 20時18分43秒
癸巳の年 如月 七日 甲辰の日
戌の刻 三つ
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