百瀬文「ホームビデオ」

気のままに。

明治から平成に戻って(古い史料を読み終えて)、百瀬文「ホームビデオ」に。
ギャラリーの前にはガラスの引き戸になっていて、それをあけるとカーテンがかかっている。中から音はなにもしない。左手でそれをあけると薄暗いバーのような空間におばあさんが話している映像が目に入る。

“The interview about grand mothers”  彼女の二人の祖母が彼女のインタビューを受けている映像。奥に目をやると人に囲まれている彼女がみえたので手をふって挨拶をする。

わたしはすぐこの映像に入って行く。活発そうな祖母はソファに座っていて背後には陽光がさしていて、その微妙なボケ具合に彼女らしさがあった。そう、わたしをとった二回目のデモシーンにどことなく似ている。わたしの背後の壁がうっすらと遠くなっていて。そんなことを思いながら、ふたりの会話をみる。
祖母は・・・どちらが父方の祖母か、母方の祖母か。二人が二人で語っている。そうだよね、楽器であれ、肉体であれ、音は必ず「機構」があるんだよね。声の主体が。そして、この作品はどちらもご存命でなければできないような同時性がさしこまれている。もし、隣に百瀬さんがいたら、「川村さんに何を言ったの?」ときいたかも。
でもまあ、単に素朴な気持ちでみているとこのふたりはまったく違うね。わりと派手目の化粧に服装、活発そうな祖母と控えめで物静かそうな祖母・・・。
(これは字幕がないが、テキストが用意されているので聾者はそれを見てもらいたい)

その祖母たちの斜め向かいには「定点観測(父の場合)」。物静かそうな、でもときどき激しい内面も見せそうな男性の後ろ姿。173項目だったか、彼女が構成した質問用紙に記入して、その答えだけを発声している。それに伴って字幕が表出される。マシンガンのように。これをみていて思ったのだが、わたしはメルロ=ポンティが指摘する、視覚の分離性と聴覚の統合性を実感することはできないじゃない。要するに、視覚を獲得するには目を動かして風景を認識する必要があるのに、聴覚は音から身体に向かってくるという話よね。音が向かってくるのを物理の授業で知っていても、実感することはできない。
でも、あの字幕をみると、これはわたしにとって視覚だろうか?聴覚だろうか? それに音は、そう、消えるものだよね。いつまでもそこにはいない。あの字幕は、徐々にフェードアウトするエフェクトではなくて、瞬殺。次の瞬間には無かったことになっていて、よけいその気持ちを強くさせた。打ち上げ花火のように、ぱあって上がって余韻を残すものではなくて、花火がひろがったと思えば、もうそこにはいない。
最後のエンドロールをみて、ハッとしたんだけど。父の場合、とあるけど、社会的なこととしての父の存在が・・・。そのことを彼女に問おうとしたが、あいにく彼女はたくさんの人たちと会話しているところであった。
一番奥には彼女しか登場しない映像。これはあまり詳しく書かないほうがいいだろう。彼女が寝ていて。途中で無関係のような、意味ありげなシーンが差し込まれるのは、あの赤いマニキュアのシーンのような。そこでフッとなぜか笑ってしまった。そうそう、宮下さんにあの映像でやっていることは気持ちいいと思うというと否定されたけど。

彼女に軽く挨拶をしてから雨にぬれる国分寺をあとにする。
中央線のなかで、ふうっ、と安堵している自分がいた。

それは、今回の個展にわたしをとった映像が出ていないことによる解放感だったのかもしれない。

2013年 6月 21日(金) 23時49分48秒
癸巳の年 水無月 二十一日 戊午の日
子の刻 二つ

 


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