宮崎駿「風立ちぬ」の感想

Posted on 2013/08/25

宮崎駿「風立ちぬ」の日本語字幕版が公開されたので見てきました。場所は横浜ブルク13、シアター5。席はI-11。真正面にスクリーンがあって、見やすい席。

見終わったあと、二郎と菜穂子はずるいなと思った。

ポール・ヴィリリオはこう書いていたのを思い出す。

「見るのではなく飛行する、それが映画だ」

ヴィリリオのいう言葉は単なるアトラクションとしての映画ではなくて、ベンヤミンのいう集団体験と撮影技術とともにからめながらヴィリリオはそう言ったのだけど、「風立ちぬ」で最も重要なモティーフとして出てくる飛行機は、現代においてもっとも不確実さに満ちた乗り物で、それは安全確実という保障から逸れ、墜落するという危険性がある。それがよくわかるのは冒頭の二郎の夢のシーン。自作の飛行機で飛び出すも、墜落していく・・・。一人称のシーンになり、目の前がコクピット。二郎が近眼であることがわかる。そんなふうにわたしたちも二郎と一緒に飛行している。

二郎が仕事とする飛行機の設計・飛行実験、そして二郎・菜穂子の恋愛が反復するリズムが生まれてくると、飛ぶのか飛べないのか、どこに着陸するのか、墜落しそうで不安定なある種のスリリングさが全体を覆っていたと思う。
破滅的な愛が許されるのは映画やアニメーションの特権だと思うけれどね。

少し思い出そう。

軽井沢のホテルの階段で、交際を菜穂子の父に申し出た二郎に、階段から降りてきた菜穂子が自分が結核であることを二郎に告白し、治療したいという。100年経っても待ってますと二郎は答え、二人の関係が本格的に始まる。結核になった女と飛行機設計の仕事に勤しむ男が手をとりあっていく姿は泣かせるものがあった。

菜穂子は病気にかかった自分を大きく見せないようにと気遣う。二郎はできるだけ菜穂子の側にいようとする。遠距離恋愛を経験したわたしにとっては、やや甘美ともせつなくともとることができるのだけど、あんなふうに離れて暮らしていながらも二人はケンカなどは一切なく(原作では菜穂子が二郎に不満をもつシーンがあるが削除されている)、お互いがお互いの気持ちにぴったりと寄り添い、そして菜穂子は自分が自分でいられる姿を二郎にできるだけ見せて、そして高原病院に戻っていった。ロマンティックで、甘美というものが擬人化されたかのようにみえた。

二郎と暮らしていたときの菜穂子の着物の柄はブーメランが折り重なった形で、これもまた飛行物・・・。

結婚前、二郎が菜穂子の家の庭から入ってくるシーン、初夜に菜穂子が二郎に「きて」というシーン。胸元はすこしはだけている。そんなふうに男と女の関係を美しく、きれいに見せられると自分の過去の恋愛を後悔しはじめてしまう。ううん、違うんだ。わたしは相手の子のことをとても愛していたし、愛しなかったことなんて一度もなかったけれども、この映画をみると、もっと上にいけたんじゃないか、やれたんじゃないかと思ってしまう。そう思わせるようなつくりがとてもずるかった。背景に関東大震災、東京、軽井沢、ドイツといった「実存」をもとにしていることもあって、どこかで「虚」の焦点を見いだすことが難しかった。

逆にいえば、わたしの未熟さをあぶりだされるような映画だっただろう。

全体として、現実と夢がひとつなぎになっていたね。ベルイマン「野いちご」を見たばかりなのだけど、あの映画では夢に入るときに夢に入ることがわかるようにナレーションが入っていて、明確に区別されている。風立ちぬではそれがなく、ストーリーが進行していくにつれ、二郎が寝ているシーンが出ることでああこれは夢だと分かってくるけど、ラストシーンはそれがなく、曖昧になっている。二郎は生きているとか死んでいるという議論があるけれど、わたしはあまりそこは大切なことではなかった。ただ、菜穂子が昇天していくところがクローズアップされて半透明になって消えていく風景は、二人の愛が終わったことを示していると思う。たとえ、二郎の生死がどうであったとしても。

さて、わたしはどこに飛べるだろうか。

PS 字幕について一言。菜穂子が置き手紙をして家を出たあと、二郎が飛行機実験を成功させるが、あのシーンで風がやむところでミュートになるらしいが、字幕にはそこが説明されていなかったので、括弧付きで説明してもらえると助かる。

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