ミケランジェロ「階段の聖母」における聖母の身振り

国立西洋美術館でミケランジェロ展がスタートしました。今年、わたしがもっとも楽しみにしていた展覧会のひとつです。この展覧会においては、階段の聖母(カーサ・ブオナロティ)が目玉とされています。

これは1490年頃、ミケランジェロが15歳のころの作品であるとされます。この作品についてこれまでどういうことがいわれてきたのでしょうか。
まず、タイトルにもある「階段」とは聖母の前にある背景の階段のことをさしており、グッツォーニが『彫刻家ミケランジェロ』においてサヴォナローラの説教のなかで階段は贖罪の象徴であり、これを登ることで天国にいけるというところから影響を受けたのではないかとします(ただ、ミケランジェロがこれを聞いて制作したかは疑問が残ります)。また、ヴァザーリによれば、『列伝』の第二版にこの作品への言及としてドナテルロが作ったようでもあるということと(浅い浮彫り「スキアッチャート」の手法)、コジモ・メディチが所有していると書かれてあったと思います。

さて、解剖学者はこの聖母についてどのように見ているのでしょうか。そこで、『解剖学者がみたミケランジェロ』をひもといてみましょう。

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まず、聖母の体位についてです。篠原は聖母の目つきに着目し、「虹彩がやや深く彫られすぎており、あたかも遠くの狐火を見つめているかのような非現実的な眼差しである。」とその目が何をみているのかと書きはじめるように、この作品をさほど高く評価していません。

篠原が着目するのは右足で、内側の縦足弓を浮かせて、外側の縦足弓を接地しています。これは、リラックスさせた時、これから立とうとして足に力を入れた時にも取る姿勢のときにあらわれるものであり、この作品の場合は立とうとしているところであるといいます。その根拠として、「背筋を伸ばし、上体をやや前傾しながら乳児を抱えた姿勢」であり、この姿勢であると右足に自然に力が入るためにリラックスすることはできないと指摘します。

聖母の手と足を考えると、衣をもっている右手とリラックスした静的な左足は対角線上にあり、子を支える左手は静的で、右足は「実際の動きはなくとも動的となる必然性がある」とし、ダビデと同じく対角線上の手足がコントラポスト(contrapposto)をなしていると指摘します。よって、篠原はこの聖母は危険を感じ、右足に力を入れ、立ち去ろうとしているところであると結論づけます。

また、乳児の右腕がとくにそうですが、筋肉質であることはしばしばなされてきた指摘です。篠原はこれは運動性を示しているのではないかとしますが、医学的な根拠というよりは解剖学者としての直感のように思われます。ちなみに、篠原は書いていませんが、このように寝ているかのようにみえる、乳児の腕はピエタでの垂れた腕に類似するという言及がよくあります。

わたしが篠原の言葉を受けてみてみると、目はたしかに遠くをみているようです。少なくとも目の前にいる男性をみてはおらず、逆に言えば視線が作品の外に飛ぶことで、奥行きのある空間が表現されている一助となるのではないか。それから、確かに足の裏側がみえるような配置となっています。みえるような、というのは足指の表現が襞に比して曖昧だから。それよりも個人的には、聖母の左手中指がおもしろいですね。襞をもっているであろうその指はそのスキアッチャートの限界のためか、空間が曖昧で、指は階段の手すりにかかっているようにも思えます。


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