1週間近く、雨や曇りが続いていたけれども、金曜日になって夏の日射しが感じられるようになった。サイ・トゥオンブリー展(原美術館)をみる。原美術館へはいつも品川駅の高輪口から歩いていくのですが、駅前から美術館への道で喧噪する空間が日射しとともにほどけていくさまが感じられる。
原美術館は障害者手帳を出すと半額になるので、550円支払って中に。いつもここは変わらない。常設もいつものまま。宮島さんの赤く表示される数字たちも相変わらず時を刻んでいる。わたしはトゥオンブリーについてまとまった作品をみたことがないので態度を留保していた。
絵をみていくと、絵には始まりもなければ終わりもないということを教えてくれるように思えた。グレーのペンキにチョークのような線がリズミカルに動いている絵をみれば、始まりの線、終わりの線は常に画面の外にあって、紙のうえにあるのはその中途であった。絵画を目の前にしたときに広がる世界はそこで完結しているのではなくて、絵の外にある世界のことに目を向けさせてくれる。手の動きが感じられる、という感想はたぶん多いかもしれない。自分でまねて見るとわかるが、トゥオンブリーのように大きく手を動かすと手の動きというよりは、手の重力や手の存在そのものが身体に実感されてくる。骨と筋肉、神経によって支えられているわたしたちの手があるということだ。この絵画に視線を戻してみるとそういうものが一切省かれていて「手の動き」「運動」というものだけが残っている。
Bolsenaというイタリアのボルセーナで描かれた2枚の絵の前にたつ。この2枚は四角形の枠に数字がランダムに並んでいて、下に沈殿していくかのような構図になっている。この絵の前にたつと、部分と部分それ自体は意味をなさないということ。それらが視線や意識によって結び合わせられることによって、化学反応のようにイメージがでてくる。すなわち、脳裏にある記憶そのものが現出しているように思われたのだった。
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