momatの常設展に中村彝が描いたエロシェンコの肖像画がある。常設ではスタメン、登場する確率が高い絵画である(右)。その横が中村本人による自画像(左)。エロシェンコは沈思するような表情で佇んでいて、視線はこちらに向いていない(それこそが、盲人を描いた肖像画としての確固たる地位を占めているのだが)。一方、中村は口をやや意識的に結び、彼の目はこちらを向いている。顔の向きは反対で、二人はお互いにそっぽを向いているかのように配置されている。
この2枚が並べられることによって、中村彝の意識そのものがこの空間に生じていたのであった。それはまさにわたしが立っているこの地点においてである。
右を見れば、エロシェンコへの一方的な視線を得られる。そして左に首を動かせばわたし自身としての中村がいる。カンバスに嵌められているガラスがわたしと中村の像を一体化する効果を出している(フランシス・ベーコン)。そして、エロシェンコはこちらを見ていない。見ていない、というよりは彼はわたしを見ることができないのだ。わたしの存在に気づいているかどうかも怪しい。大切なことは視線をもつ主体と受ける身体のあいだに距離や遮蔽するものなど何もないことだ。そう、ここは画家の空間である。自分の姿を保ちつつ、見返されることのない、一方的な視線をそこにいる盲人に送っている。
このようなシチュエーションが発生していることによって、中村彝の意識、身体そのものがこの場で立ち上がっていた。そして、中村の身体を借りて初めて盲人を見つめるということを、客観的に捉えたように思えた。
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