風景の分解不可能性 — 「Hyper Landscape 超えてゆく風景展」

「Hyper Landscape 超えてゆく風景展」にて

 

ワタリウム美術館にて「Hyper Landscape 超えてゆく風景展」をみた。

この展覧会は梅ラボとTAKU OBATAの二人展となっているが、4階にあるTAKU OBATAの映像作品がおもしろい。ストライプに彫られた木のキューブが落ちていく瞬間をハイスピードで撮影している映像。落ちるキューブを撮影するアングルを変えて組み合わせているため、「横に落ちる」「上に落ちる」「奥に落ちる」といった加速度の表現が同時発生的に可能になっている。そうであるなら、電車が並行している状況や何かが飛んでいる状況とみなすこともできるし、台風で倒れそうなほどに揺れる木の枝のことも想起されよう。そうするともはや木のキューブは木ではなくなってしまう。今でも変わらないが、わたしたちは木に霊魂があることを強く信じている。それは別の意味では、擬人法ならぬ、木の擬物法であって木に加速度を加えることによって、物質性を託すことができる。

梅沢和木の「windows0」という立体作品はパソコンのディスプレイをもとにしている。これは前にも展示されたのを見たことがあったけど、ここで見るとワタリウムの展示空間そのものを凝縮した作品に見えるところがおもしろい。それとヒエロニムス・ボスの絵画のようなキリスト教の世界に基づきながらも得体の知れないものたちがいるが、あのようなわたしたちの感覚では感知できない存在への慈しみを梅ラボの作品から感じる。この作品は撮影禁止だったけど、作家本人が紹介しているものはこちら。これを作った当時、梅ラボは高校一年とのことでパソコンを買ってゲームなどいろいろとやっていたそうだ。

3階に展示されている新作の「V夢」を見た瞬間、あの絵画だと何かのイメージを思い出しかけたけどそれが何かはわからなかった。あまりにもぼんやりしたイメージで消えてしまったから。それは下にある「jjeewwellrriieess!!0000000」の白い動きも重なって浮上していた。視線を落としてもう一度見るも、思い出せなかったのだけど次の日の朝にコーヒーを飲んでいるとすんなり思い出した。それは山本芳翠「浦島図」(1893-95年頃)だった。

明治の人たちによる浦島太郎というコミュニケーション形成に寄与したとされる絵画だ。わたしは漫画やアニメに詳しくないので、梅沢が使うモティーフの元となるものが何かはわからないけれど、これらの新作には「パリイ」をはじめ、3階には黒い光沢紙を使用しているように見えた(違うかも。また「パリイ」とはダークソウルやロマサガに出てくる単語。梅ラボはどちらかをプレイしているのかもしれない)。
それは「浦島図」のように暗い沈んだ海から顔を出す龍宮城の人魚たちと亀に乗る浦島太郎としてインターネットという終わることのない、蓄積されつづけるイメージの底にある存在たちが海面に顔をあらわす一瞬を梅沢の作品からみとめたのだろう。「V夢」と「jjeewwellrriieess!!0000000」だけでなく、その後ろにあるガチャガチャとした構成の壁面がなければ浦島太郎のイメージにたどり着けなかっただろう。
志賀重昂が『日本風景論』で植物、動物、水蒸気、風、火山の諸要素に基づいて分解的に風景を論述している。それは「浦島図」において解釈すれば、浦島太郎の衣服、幟、人魚たちの豪華な装飾品や不穏な動きをする雲、海岸線のきらめきを風景として認識することでもあった。なぜなら、梅沢の作品は志賀が行ったような風景の分解可能性を不可能にしているからである。


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