平成の思い出 ー 恋と嘲笑

Posted on 2019/04/30

今日で元号としての平成が終わる。
わたしにとって、ひとつの元号を生きるというのは初めてのことだ。

けれども、昭和が終わったときのあのどんよりした雰囲気を子供心に刻んでいる経験があるためか、あまり歓喜しているような気持ちではない。何より災害の多い時代だった。平成において思い出は山のようにあって、思い出そうとすれば、箱から無数の思い出たちが飛び出して溢れかえってしまうようで収拾がつかないというのが正直なところだ。

そんな中、ひとつだけ思い出を記すなら「恋と嘲笑」である。

話は高校3年生の時に遡る。進学を控えていてクラスは緊張感のある日々だったのだけれども、クラスにはひとり、好きな子がいた。ロングヘアの活発な子で笑うと唇のかたちがスマートで綺麗だった。その唇が好きだった。

同じクラスになるまでは存在を知らなかったので、おそらく春になってすぐに好きになったんだと思う。けれども話をする機会はまったくなく、そうこうしているうちに、秋学期が始まった。秋学期になると、もう受験モードで部活も引退しているので、みんな家に帰るのが早かった。

そこで、たまたま教室で彼女と二人っきりになった。そこで話しかけると軽い笑顔で応答してくれた。勉強の方法から進路の話までざっくばらんに話したことを覚えている。そのとき英文学を専攻するべくある大学の文学部を目指していると初めて知った。帰りのバスが同じなので、思い切って一緒に帰らない?というといいよ、と応じてくれた。
帰り道で「木下くん、絵が好きなんだって?」と聞かれたことをよく覚えている。当時のわたしはダ・ヴィンチが非常に好きで、バスの中でルネサンス・イタリアの画家の話をした。わたしの日本語の発音はとても悪いので、空に指で字を書いたり、紙に書いたり、あえてちょっと声を出すと彼女は真剣に聞き取ってくれた。

すごく楽しかった。高校で一番の思い出はまさにその時間である。バスを降りるのはわたしが先だったので、じゃあね、と手を振って降りた。外から走り去るバスをチラッと見ると、彼女は何かに耐えるようにうつむいていた。どうしてだろう。

嘲笑。

そのバスの一番後ろの席に同級生の男子が3人ぐらいいて、わたしを見てゲラゲラ笑っていたのである。しかも、窓からわたしを指差していた。その3人とは遊んだこともなく、名前を知っているだけである。
話をして、降りただけなのに何がおかしいのだろう、とわたしは訝しく思った。しかし翌日登校するとなんだか他の人の目がおかしい。ジロジロと見るのである。何かしたのかなあ、とあいかわらず自分の机につこうとすると例の彼女がいたので、挨拶しようとするとプイッとそっぽを向いている。その姿は、わたしに構わないで、という強い身振りだった。

何があったのだろう。わたしは別のクラスにいる、一番親しい友達のところに行った。人気のない廊下で、かれは「おまえ、噂になってるで。昨日あの子と一緒に帰ったらしいな」と言った。ああ、バスで居合わせた彼らが言いふらしたのか。平然とそれがどうしたのかというと「フッ」と彼は笑って教室に戻っていった。

この日以来、わたしは彼女と二度と会話をしなかった。そのまま卒業式を迎え、彼女は多くの友達に囲まれて去っていったのを見つめていた。わたしは彼女に、なんと言葉をかけたらいいのかわからないままだった。

あれから数年過ぎた。平成は続く。

講義や研究の関連で、アーヴィング・ゴッフマンの「儀礼的無関心」という言葉を知った。知らない人間とすれ違う時に姿をみるが、視線を合わせずにお互いに無関心を行う行為のことをいう。それは礼儀正しいこととされているという説明だった。ちょうど、21世紀になったばかりの頃で『障害学の招待』など障害についての学問が大きく開かれるときだったこともあり、ゴッフマンの本を読むようになった。

そこで、社会学者の市野川容孝はこう書いている。(市野川容孝「「障害者」差別に関する断想―一介助者としての経験から」坪井秀人/編著『偏見というまなざし 近代日本の感性』青弓社、2001年)

車椅子を押しながら、障害をもつ人と初めて街中に出ていったときにまず気がついたのは、周囲の人たちのまなざしの違いである。私が「健常者」として一人で歩いているときに注がれるまなざしと、私が介助者として「障害者」と一緒に歩いているときに注がれるそれは、まったく異なっていた。後者の眼差しは、私自身に向けられているというよりは、私が介助する「障害者」に(…)向けられているのだが、そのまなざしは、位置関係からして、車椅子を押している私にも自然と向けられるのである。

わたしは即座に閃いた。

あの楽しかった帰り道が。

綺麗な唇のあの子の笑顔が。

市野川は続ける。

ところが、「障害者」の場合は少し事情が違っている。車椅子を押すことで、「健常者」である私が図らずも知覚することになった「障害者」に対するまなざしは、この「儀礼的無関心」からはずれるものだった。(…)すでに指摘されてきたように、マイノリティというのは、ある局面では決して無視される存在ではない。そうではなく、その「物珍しさ」ゆえにことさら注視され、有徴化される存在なのである。

本を手にしながら、わたしは平成の甘酸っぱい恋をはじめて理解しなおしていた。あの子は障害者であるわたしと一緒にいる時のまなざしの違いをあの嘲笑で理解して、耐えがたくなっていたのか。だから、ずっとわたしを見ようとしなくなったのか。

あの頃のわたしは、耳が聞こえなくても、聞こえなくても、という論理で健常者と同等の学力をもつことを強く求められていた。手話をやってはいけないとも言われていた。大変浅はかな考えであるが、そうすることによって障害者であるという枷を外していけると信じているところがあった。しかし、実際は少しもそうではなかった。どこまでいっても、わたしは耳が聞こえない、聴覚障害者として見られてしまうのだ。

けれども、あの日、あの子と教室に居合わせなかったら。あの嘲笑を浴びせた彼らが同じバスに居合わせなかったら、わたしはどうなっていただろうか。
同時に、それはわたしだけでなく、多くのマイノリティーが抱えてきたことでもあるはずだ。では、どうしたらいいのだろうと模索するようになった。それは京都盲唖院、盲唖学校、伊沢修二、指文字、手話、点字、不当に虐げられ、消えていった人たちへの関心のエンジンがかかっていったきっかけでもあったのではないか。だから、わたしにとっての平成は、「恋と嘲笑」がいちばんの思い出なのだ。

いま、平成最後の夜空を見上げる。

あの子はどこでどうしているだろうか。夢を叶えて、英語の先生になっただろうか。あの彼らはどうしているだろうか。

君たち、幸せでいてくれ。

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