昨今の黒人や女性の人権、香港における言論の自由といったことについて、思い出したことがある。
日中戦争で戦死したひとたちのなかに、原田愛という人がいる。
「愛」は「めぐむ」とよむ。最終階級は中佐だから高位である。鳥取県出身で戦死後に市民葬が営まれた。原田は陸軍士官学校を出て、少しの間だけ代用教員をした以外は、生粋の軍人であった。原田には遺児が3人おり、長女を久美子といった。
やがて戦争は終わった。父はもういない。
久美子は故郷・県立鳥取図書館に勤務した。そのかたわら『因伯民乱太平記』の翻刻をまとめている。あとがきによれば、鳥取藩に打撃をあたえた一揆についての史料が知られないままでいることを惜しんだようだ。そうして、原文を忠実に翻刻しつつ、補足を上に添えるという丁寧な仕事をされている。そのあと、1953年に京都に転任し、京都府会図書室、のちには京都府立総合史料館に勤務している。
3年後、久美子は1956年には京都府の自由民権運動を大きく推進した天橋義塾の存在を知ることになる。これに関連する業績として『京都府議会歴代議員録』の編纂、天橋義塾をはじめとする京都の自由民権運動の研究を立て続けに出し、知られる存在となった。
自由民権運動は高校の歴史の授業にも出る話だ。民衆が国会開設、憲法制定、それに自由と自治を求めた大掛かりな運動で、1880年代を中心に繰り広げられた。
わたしたちがこうして「自由」にものをいうことができるのは、こうした自由民権運動にたいする弾圧と無縁ではないことをよく理解する必要がある。
わたしが久美子の名に接したのは、2007年に岡本稲丸に会ったときである。何度かふれているが、岡本はわたしの研究に最も近くに位置する(専門的に極めて近い)。その岡本は久美子への感謝を何度も述べていた。それは、久美子のことを意識しなければならないという教えを岡本からうけたことになる。岡本からうけた宿題は多い。
じっさい、岡本の著作を見ると久美子から資料の提供を受けたことが記されているところがいくつかある。天橋義塾と盲唖教育の関係は浅くない、自由民権運動における自由と平等の理念が盲唖院の掲げる障害者の「自立」と相性がよかったからだ。
岡本は軽い認知症がおありだったが、久美子がすでに亡くなられていることも回想していた。
そうして、岡本の教えを受けたわたしは、久美子の著したものをひと通り読むことにした。わたしの印象に残る彼女はたとえば色川大吉『自由民権』にきびしい批判をくわえている姿である。
久美子は色川に向かっていう。「天橋義塾に言及されている個所については、事実にもとづかない断定があり、ためにいちじるしく矮少化された天橋義塾像が示されていて、納得しがたいものがある」と。それは「安易な類型化はつつしむべきである」と、色川の分類基準は正しくないというものであった。同時に、飛鳥井雅道による天橋義塾についての見解に応答し、「こうした見解が出されていることを念頭におきながら、天橋義塾の営みをどれだけ説得力をもって書くことができるのか、重い課題ではある」と慎重に応じる姿勢もみせている。
これだけでも並々ならぬ熱意があることが分かるというものだ。なぜ、こんなにも自由民権運動に取り組んだのだろうか。
このことは久美子の家族の運命が作用しているように思えてならない。
久美子は1982年に妹・弟とともに父母の伝記をまとめている。それが『原田愛と光子』という紺色の本だ。光子は「みつこ」と読み、久美子の母である。第1部は1981年に亡くなった光子の自伝の草稿をもとに原田がまとめなおし、第2部は原田愛の日記や手紙からその人生を構成している。光子は、戦争で夫を失った未亡人として戦後をずっと生きたのである。その長いことか。
久美子は父を近くに感じ取る。
「私たち〔きょうだい〕は、細い字で書き込まれた父の日記の通読、英文日記の翻訳、手紙の筆写といった作業をとおして、父を身近かに知ることができた。遅きに失した観はあるが、早く父を亡くした私たちにとっては、大へん貴重な体験であった。」
戦中、12歳の久美子は父が戦死したときはこう回想する。
「御父様! 御父様!! 御父様は今何処で何をしていらっしゃいますか。(・・・)今でも御父様の死目に会わない私たちは、元気で駅を立たれたことを思い出すと、御父様はどうしてもこの世に御出になると思われてなりません、そうです。御父様のお体はこの世に無くても其の尊い霊は何時も私達の傍をはなれずに守っていてくださることと信じています。(・・・)」
(補足:現代仮名遣いに直した)
久美子はどこまでも父を信じていた。最後に彼女は宣言する。
「私はこの尊いお父様の教を守って、どんな苦しい目にあっても立派に成人して御父様のかたきをうちます。(・・・)うらみのある支那軍と戦っている日本軍の勝利を祈られるでしょう。そうして私達をいつまでも守ってくださいますでしょう」
(補足:現代仮名遣いに直した)
戦後、55歳の久美子は書く。
「「満州事変」にはじまる十五年間の戦争で、三百万の日本人が祖国に還らず、少なくとも二千万のアジア人を犠牲にしたという。あの無謀な戦争によって、どれほど多くの人々が虫けらのように殺され、また平和な家庭が無惨に破壊されてしまったことだろう。二度とわたし達のような思いを味わう人々が出ないでほしいと希わずにはいられない。」
まちがいなく、「希う」は「こいねがう」、戦争を拒否する強いパッションと家族への憧憬がそこにある。だからこそ、個人の思想が社会や時代によって形成されることを理解してもなお、わたしはこの2つの相容れない文章が、同じ女性の手によって書かれたという事実にたじろいでしまう。それは戦争が蝕んでしまった自由の成れの果てなのか。
久美子が、父母の伝記をまとめることと一揆や天橋義塾の研究を絶やさなかったことを区別してはいけないのではないか。久美子は自由が失われ、戦争へ突き進んだ国のことを自由民権運動を通じて理解したかったのではないか。
この問いが正しいかはわからない。わたしがすでに亡い彼女に出会うことができたなら、そう問いかけるにちがいない。
この文に添えている写真が、原田愛と原田久美子、そのひとたちである。
コメントを残す