20220129

1月29日。土曜日の朝はいつも楽しみがある。今朝は普段のように目覚めたのち、新聞を読んでいたらツナサンドを食べたくなったので、バターで炒めたパン粉のツナサンドを作る。ついでに卵サンド。ネットニュースを見たら、将棋の王将戦3局が始まっている、ゆっくりとした出だし。この出だしのようにわたしも外出し、佐々木健「合流点」を見に行く。元はと言えば、田中功起さんのツイートが知ったきっかけで、相模原での殺人事件を対象にしていることもあって見に行きたいと思っていた。だけどその年末年始は仕事が多くて会期間際になってようやく行けたという体たらくである。そのあいだに『美術手帖』で佐々木さんが飯山由貴さんと対談しているのがおもしろかったし、少し前に梅ラボさんが黒嵜想さんと一緒に出かけたとツイートをしているのを見ており、行かなければならないなと思っていた。というか、黒嵜さん、横浜に来てくれたんなら一言声をかけてくれ!
京急線で金沢八景駅まで。横浜市立大学の最寄駅で、そこの図書館は横浜市民が利用できるようになっているが、この新型コロナウイルス感染症の状況からして利用できないだろう。また、大学のすぐ南側に1軒、蔵のあるよい門構えの家が電車からみえる。なんだろうか。その駅で降りてすぐに京急バス、鎌24番に乗る。この路線は初めてなので、グーグルマップを見ながら景色を眺めていた。途中にブックオフがあるようだ。このあたりでバラの花が全身にプリントされたコートという奇抜ないでたちの男性が乗ってこられた。一目見たら忘れられない柄。この路線に乗るたびにそのことを思い出すかもしれない。鎌倉霊園のあたりで坂を上下し、十二所神社を通り過ぎると会場「五味家」である。どういうご縁かなと思ったが、佐々木さんの祖父母が住まわれていた家で、いまは佐々木家で管理しているとのこと。玄関のドアが開いていて、それなりに靴が並んでいた。繁盛しているようだった。6畳もないぐらいの小さな応接間に通されると、ホームビデオの上映にどこかからの土産品、文庫が並んでいて、天井に近いところには佐々木さんのお兄さんが書いたものを佐々木さんが「模写」した絵画作品。さあっと見渡していると、高齢の女性(あとでわかったが佐々木さんのお母様とのこと)がお茶とお菓子を運んで来られたので、展覧会に来たというよりは誰かの家に遊びに行ったようだ。くつろぎながら映像を見ていた、女性がスピーチの練習をしていて、途中でお兄さんが我関せずとしているという対比。
お母様が作成された佐々木さんのお兄さんのプロフィールを冊子にしたものをみる。随所に愛情がにじみ出ている。そのにじみ出ているものは、知識の引き出しのひとつを開かせた。それは坂本義夫が書いた、岡山孤児院の本で明治40年に出版されたものだ。この中に、ある地からたった一人で周りの助けを借りながら岡山孤児院にやってきた子供の物語がある。その子の首には「履歴袋」というものが下げられていて、子供の名前、両親のこと、家庭のことが記されている。それによれば、父がダイナマイト事故で失明してしまい、母は子供を捨てて逃げてしまったこと、父もまた事故で亡くなり、子供だけが残されたことが書いてあった。この子の運命をわたしは知らない。

佐々木さんのお兄さんのことがまとめられたその冊子が、施設や周りの人との交流において機能しうる意味において、またプロフィールという語の本来の意味である、その人の輪郭、その人を語るという構造において、明治の一人の孤児の物語の変形質のように思ったのだった。遠い未来のいつかの日、佐々木さんのご両親がこの世からいなくなり、お兄さんと佐々木さんの二人だけがいる世界において、その冊子がますます光をもってくるさまをわたしは想像していた。たまたま隣にいた人が知人であったことに気づき、しばらく話をしていたのも何か人の家に遊びに行ったという感覚を強くしていた。
応接間を出て居間に出る、6畳と8畳をつないだ部屋で床の間や縁側も含めたら20畳はあろうか。お兄さんの肖像画、相模原での殺人事件の現場のすぐ近くにある相模川の風景画や佐々木さんの文章などが展示されている。その文章は昨年の7月末に書かれたものだった。相模原での殺人事件から崇高の問題にアプローチされていて、3年前にテートブリテンに通って近世絵画を見ていた時間と重ねてながら見ていた。庭をうろうろして、戻ったところで男性に腕をたたかれて呼び止められる。その人が佐々木さんだった。立ち話からソファに座って展示の話や障害者教育の動向など長話をする。ソファの真向かいにある、観覧車やジェットコースターの描かれたこんもりした森の風景は雲の重厚感がかなり出ていて何かを押しつぶそうとしているようだった。それは足場工事に使われる建地のようなものに絵画をかけていたが、横にある相模川の絵画と方位の関係をもっていると言われたとき、絵画と絵画のあいだにあるはずの描かれなかった風景が現前されてくる。途中、横浜美術館の方々がこられたのと、外の空気を吸いたくなったので佐々木さんと別れて朝夷奈切通まで歩いていく。ちょうどがっしりした靴だったので歩きたくなったのだった。民家のある途中まですれ違う人たちがみんな挨拶をしてこられるので、わたしも頭を下げる。なかなかないことだ。切通は傾斜があり、ぬかるみも多い。すり減った鎌倉石から石から飛び歩いていく。シダとシダのあいだを歩いていく。頂上には仏像が刻まれた岩とニッチな空間。次第に体が重くなりそうだというところで、高速道路と切通が交差しているところがゴールだ(このポストの上の写真がそれ)。古道と近現代という時代の全く違う道。人が歩く道。車が風景をキャンセルして走り抜ける道。コンクリートと鉄でできた、自然をはねつけようとする道。あちこちに石がコロコロしているボコボコした道。あるいはこうとも言えるだろう。障害者として生まれなかった人が歩いていく道と、一生において障害者である人が歩く道。どちらがそうかはわからない。でも、2つの道が間違いなくあった。それは障害者をめぐる制度的な意味もあるが、たんにその人間の運命である。生まれた時に自分の耳が聞こえていたら、現在のわたしが歩いていない一方の道にいたに違いない。だからこそ見てみたい、このふたつの道が合流するところを、分かれるところを。


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