香川県丸亀市にある丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にて今井俊介の個展「スカートと風景」をみた。
今井のこの10年ほどの画業をまとめてみる機会となるこの展示だけれども、今井の絵画とは何かというと、覆いかくす(conceal)絵画だと思う。
そう考えたのは、昨年、宇佐美圭司のことをまとまって考える機会があったからだろう。この年、東京大学駒場博物館の「宇佐美圭司 よみがえる画家」展が開催され、わたしは以下のことを書いた。
https://tmtkknst.com/LL/blog/2021/07/03/keiji_usami/
要するに、宇佐美の芸術は身体を輪郭線でなぞってマスキングしたパターンを組み合わせることで、身体同士のもつれ合い、やがては身体の消滅が予言されているものだった。宇佐美の絵画に消滅が命題としてあるなら、今井の絵画は覆いかくす(conceal)ものだとわたしは思う。
何が何に覆いかくされているのかといえば、絵画そのものが絵の具によって覆いかくされている。今井の絵画はストライプ、ドット、図形の構成が、旗やカーテンといった「一枚のはためくもの」が重なっているようにみえる。これらの見方を変えると、風景画のようにもみえてくるが、その先にあるものを認識することはできない。
絵画は透視図法のように空間表現の技法が探求される歴史としてあるが、今井の絵画はあたらしいステージを提示している。それは、ストライプやドットといったパターンをかきわけるような感覚を持つと奥行きが現れるという見え方だ。ここまでは誰もが感じることだろう、ここには覆いかくす(conceal)ことが認められるように思われた。
だいじなのは、べったりと塗られていないことだ。薄く、均一に描かれていて、キャンバスの荒い素地としての、かすかな凹凸がある。しかも、キャンバス全てを絵の具で塗らないこともある。そこには、近代以来の紡績の歴史の層がある。そもそも近代日本の経済を支えた産業として紡績があるが、この紡績によって作られるキャンバスが今井の絵画によって、描かれているものが「一枚のはためくもの」にみえた瞬間に再び紡績に立ち返っていくように思われた。そのはためくものは紡績の主要な生産品としてあるからだ。もし、この絵画の中に入ることができ、はためくものを手で払いのけることができたとしても、そこには何もみえまい。なぜなら、絵画そのものが覆いかくされる対象であって、その先には何もないからだ。そのことを考えると、キャンバスの素地が感じられることはとても重要だ。
言い直そう。わたしは高松である人に「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館まで今井さんの展示を見に行くんですよ」と予定を伝えると、「ミモカ(MIMOCA)ね」といわれた。ミモカは同美術館の略語なのだが、その瞬間「ミモカ」と「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」がわたしの中で置き換わっていくのを感じていた。「ミモカ」=「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」ではなく、ミモカが「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」を覆いかくしてしまい、しまいにはミモカそのものになってしまう。今井の絵画と対面するということは、そういう体験に近い。
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