身体を光で切り刻む — 宇佐美圭司の芸術

Posted on 2021/07/03

7月2日、雨の日。東京大学駒場博物館の「宇佐美圭司 よみがえる画家」を訪問する。

わたしは東大の史料編纂所や明治新聞雑誌文庫でリサーチをして昼食を食べるときに食堂を利用することがときどきあった。そこに宇佐美の《きずな》が置かれていた。一見したところ、絵画というよりは一種のダイアグラムのようにみえた。それは、わたしが建築学を専攻していてダイアグラムを多く見ているのと、片隅にシルエットの説明がつけられていたからだろう。けれども、食堂は人通りも慌ただしく、あまりゆっくり見ている時間はあまりなかった。そうしているうちに、それは撤去された。撤去されてしまわなければ、こうした今回の企画もまた無かったにちがいない。このことはこの厚い雲のようにわたしの気持ちを曇らせている。

駒場博物館に入ると、宇佐美展のポスターが置かれていたので1部いただく。失われた《きずな》の再現画像がメインビジュアルなので、できればいただいた方が良い。初期から晩年までを厳選し、構成された展示をみていくと、身体障害について考えるときに示唆深いものがある(わたし自身の視点がそれに依っているという点も自覚しているが)。
なぜなら、「身体障害」はその人の身体に在るのではなくて、大衆の認識、メディアといってもよいだろう、その中で形成されている身体だからだ。障害学では「社会モデル」という身体障害の捉え方があるが、それに近い考え方だ。

宇佐美の芸術を通してみることで、それがよくわかるように思う。補助線として、ふたつの視点を提示してみたい。ひとつは、プリベンション(予防装置)ということばを使っていることだ。それと、身体をなぞる輪郭線を使ってマスキングしたことだ。プリベンションについて、宇佐美は「芸術家の消滅」でこう書いている。

「プリベンション(予防装置)の概念を、障害物であると同時に、それと相反する、導入するとか、誘導するとかの意味を持った、克服されるよう計画された障害装置、という両義性において使用したいと思う」

宇佐美のいうことは、新型コロナウイルス感染症で例えるとわかりやすいだろう。罹患しないために「三密」というキャッチフレーズが推奨され、それにそぐわない空間は避けることが宣伝されている。つまり、わたしたちの生活において、克服されなければならない壁として計画されているのである。

このことを宇佐美の生きた昭和時代にひきつけてみると、身体障害は克服されなければならないものとしてあった時代だ。大きな例でいうと、第二次世界大戦における傷痍軍人たちのことがある。身体の各部を回復不能なまでに怪我した人たちは、義肢を使用し、職業訓練を受けて社会に復帰しようとした。けれども、中には「白衣の勇士」として路上で施しを受ける人たちもいた。また、全く耳の聴こえない人たちは手話を否定され、口話という口から発語するというトレーニングを受けざるをえなかった時代があった。そこには、正常性が強化されていく社会とともに何が身体障害か規定されることが背景にあって、障害は克服されなければならないという言説がつきまとっていた。そうした昭和の社会状況と、宇佐美の考えるプリベンションは親和性が高い。

宇佐美は、プリベンションを採用する方法として、よく知られているように1965年のフォトジャーナル『LIFE』からワッツでの事件写真から切り抜いた人のパターンを使っている。輪郭線をなぞるように人を切り抜くこと、プロフィールは人物紹介の意で使われている。ここから遡上すれば、人の横顔から輪郭線をなぞるという「シルエット」の概念に行き着くだろう。この歴史はストイキツァ『影の歴史』にくわしいが、要するにそれは人間だと認識できる最小限のイメージである。
ストイキツァだけでなくグールドも記したように、シルエットという方法は観相学と近しい関係があった。外形が内面と関連しているという考えは人種差別の思想になったことが知られている。

しかし、宇佐美のなぞる輪郭線はひとりの人間という単純なものではない。繰り返すが、それは最小限のイメージである。展示されている《ゴースト・プランNo.1》をみればわかるように、切り抜かれた身体を重ねて、さらに輪郭線がつくられている。ポジとネガの関係になったその身体同士はお互いを消しあうために何をしているかは理解しがたい。身体と身体が重ねられ — ぶつかりあい、新たな輪郭線が作られている。これは身体同士のもつれ合い、せめぎ合いだ。

ろう者の世界では、たとえば、乳児期の聴覚スクリーニングを経て、障害が認められば人工内耳を装着し、音声訓練を行うことを推奨する動きがある。いっぽうで、近現代のろう者たちが培ってきた言語すなわち手話による教育の需要もある。ここで当事者たちの議論ははげしく、せめぎあっている。こうした、言語権をめぐる公正さが聴覚障害教育のトピックとして在りつづけている。盲人の世界でも、点字を受け入れず、音声に頼る動向があるという。
《ゴースト・プランNo.1》や水族館をテーマにした作品ではおのおのの身体がガラスを思わせる薄いブルーの構成と、直角に折れ曲がる迷路のようなラインのなかにある。近代において大量生産されるようになったガラスは、レンズとして身体をさらに分解する原動力となった。いうまでもなく、近代の科学技術による身体機能の解明である。そのことは《Laser:Beam:Joint》によってより明らかになろう。蛍光性アクリル板を身体のように切り抜いたものを5枚、向かいあわせるように立て、残った1枚を背後に立てる。教会のバシリカのごとく。そこに生じた間に青と赤のレーザーが貫通するという構成だ。

わたしが鑑賞したときはちょうど東大の演習(?)が開催されていた現場に居合わせたようで、教員らしい男性が身振り手振りで解説をされていた。スイッチが入り、レーザーが入りみだれる。
レーザーは南画廊での個展写真とは比べものにならない弱さで、はっきりとみとめることは難しく、ドライアイスでようやくみえるというぐらいだ。ドライアイスの量が多すぎたようで、またたく間にアクリルが白い煙に包まれたために教員らしい男性は出入り口のドアを開閉して空気を入れ替えようとされた。
正面に立ってみるとアクリル板が3枚重なるところで赤い光がかすかに目にちらつくスポットがある。そこではアクリル板同士がジョイントされるのが「見える」。しかも、アクリル板は半透明でそれぞれの身体が透過しているので個有の身体の認識がますますむずかしい。

つまり、宇佐美の芸術は光によって、身体を切り抜くことによって身体をどのように認識しうるか、身体への想像力が問う現場である。どのように認識しうるかというのは、これは男である、女である、老人である、中年であり、身体障害であるといった制度に基づく基準の前にうやうやしくひざまずくことではない。そうではなく、目の前にあらわれる出来事と身体に対する様々なアクションを見渡したうえで接する—せめぎあうということなのだ。それが宇佐美の発見した、ワッツの出来事の、各々の感情に基づく身体の所作が示していないか。

もしそのことを認識できなければ、制度という濁流にあっさりと飲み込まれて消えてしまうにちがいない。その意味では、宇佐美の芸術は成り立つかどうかもわからない残酷な悲劇を予告しているように思える。そう立っているわたしの前に、《Laser:Beam:Joint》のチリチリとまたたく弱々しいレーザーがシグナルのように声にならない声を立てていた。

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