平成24年度 武蔵野美術大学 卒業・修了制作展において、百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》をみた。
わたしは、この作品で「木下さん」と呼ばれる出演者だ。
まず、この作品についてどのような背景があったのかについて。例えば出会いのきっかけ、打ち合わせ、撮影の現場など裏側でどのようなことがあったのかについては、作家である百瀬本人より語られることがあるだろう。わたしは作家の気持ちを何よりも優先したく、現時点で、わたしから積極的に発言することは一切差し控えたい。
最初に話しておきたいことがあるのだけど、この上映の紹介について。
百瀬さんのサイトにある、上映の紹介ではわたしが身体検査結果の書類を指差している部分がトリミングされている。サイトでもうっすらと文字が判読できるが、これはわたしの耳が聞こえないという医学的な証明書。
わたしの人生において、家族以外、誰にも見せたことがないんだよね。過去の恋人ですら、あの書類を見せる必要がなかった。見せなくても、耳が聞こえないことはわかったから。
でも、あのようなトリミングによる上映の紹介のかたちで、わたしへ降り注いだ医学的な眼差しが、一気に見知らぬひとたちの目に曝された形になった。
あなたはいきなりこれをもってきたのか。思わず、呻き声とも怒りとも苦笑ともなんともいえぬ声を出してしまった。自分の胸に秘めていた、何かが一気に見られてしまったような気持ちがしたから。それはわたしの身体に聾ということへの恥ずかしさなのだろう。「耳が聞こえないことは恥ずかしいことだ」という間違っているとしか思えない価値観や眼差しを受けとめていたことを思い出したのかもしれない。この紙切れによって、わたしはおのれの身体の内部を曝け出されている。
・・・これを最初の案内に出すとはね。
さて、この作品を見たのは、本日1月19日の15:30の上映。10分ぐらい前に着いたときには百瀬さんが緊張した顔持ちでわたしに挨拶をした。また、写真研究の冨山さんもみえておられ、「うわあ、久しぶり」と少し会話をする。
ほどなくして前の上映が終わり、観客が出てきたとき、そのなかのひとり、ふたりがわたしの顔をみて「!」という顔をされたので、ああ、わたしだとわかったんだなと思った。
さて、時間になり、上映に(ネタバレはありません)。
作家による、この映像の説明文にはこんなくだりがある。
「この映像は、聾者である木下さんと聴者である私とで行った、「声」をめぐる対談を記録し編集したものです。」
そのとおり、わたしは百瀬さんと対談をしているんだよね・・・。観客として座席にいるわたしは、スクリーンにいるわたしを見ている。矛盾はない。矛盾はないはずなんだよね。
そして、わたしの語りはどこにも響いていなかったし、映像のなかにいるわたしは、間違いなくかつてのわたしの姿だった。それもその・・・撮影されたときのわたしではなく、もっと昔の・・・古い、古いときのわたしそのものだった。そういう意味で自分のなかにある記憶を呼び起こされた(これは実際に見ないと意味がわからないと思う)。
途中、わたしの隣にいた女性が口をおさえたりしていた。泣いていたのかもしれない。最後までとても熱心にみてくださっていた。
話しているわたしをみると、ダムタイプ《S/N》に出ている聾者・石橋健次郎さんのことも思い出した。
石橋さんはアレックスという役名でブブさんとのシーンがあって、とても読み取りにくい声で話している。そんな石橋さんと自分の違いも確認できた。
ちなみに、わたしはかつて、石橋さんに長い手紙を書いたこともある。
上映が終わり、百瀬さんから話をきいた。これはある告白であり、ふたりが語り合わないと出てこない部分だろう。聾者も含めた、他のひとが内容を知ったらどんな顔をするだろうか。怒るだろうか、それはわからない。
ただ、ひとつだけ言えることは、あの映像は・・・わたしのような一介の聾者にすぎないものでもガラガラと崩れるものがあって、この作品はたくさんのひとにみてもらいたい、ということだ。
そしていつか、時間が過ぎ去ったときに百瀬さんとわたしで、出会い、打ち合わせ、撮影、編集といった作業を思い出しながら、対談の続きをしてみたい。
記憶が鮮やかなうちに最初の感想を認めました。
百瀬さん、おつかれさまでした。
また元気でお会いしましょう。
木下知威
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