アンドレイ・タルコフスキー「鏡」をみていると、1コマ、1コマが光とともにやってきて、過ぎ去って行く・・・。その1コマは去っていくと、わたしのなかに押しとどめていることが難しい。あっさりと押し流していってしまう。
パンフレットなどによると、この映画はタルコフスキーの自伝的作品とされていて、作者の父母がモデルとなる男女とその子供、その子供が成長して妻ナタリアと別れる。祖母も出て来て、3世代の作品になっている。ストーリーは一貫しておらず、ひとつのシーンがひとつの記憶のようになっていて、その記憶が記憶を召喚し、あるいは別の記憶を生産するようなそんな映像だった。その理由として、母マリアと本人の妻ナタリアが同一の女優、マルガリータ・テレホワが演じている点にあると思う。つまり、どの世代なのかわからないという曖昧さが強調されているのではないだろうか。
冒頭で、草原の向こうからやってくる医師の男性をみている母マリア。医師はナンパする気があるのか、マリアに語りかけてきて、しまいにはタバコをもらって母が腰掛けている木の柵に座ろうとするが、ポッキリと折れてしまう・・・。当然ながらふたりは地面に倒れる。
そりゃあ、あんな細い木だから二人が腰掛けたら折れるのも無理もないけれども、この折れた木について、あとあと考えて見ると面白いのであとで述べる。
この映画をみようとおもったのは、予告編にレオナルド・ダ=ヴィンチの「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」(ワシントン・ナショナルギャラリー)が使われているからだった。
「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」( c. 1474/1478, ワシントン・ナショナルギャラリー)
このジネヴラ・デ・ベンチは、父と母が別れるシーンに一度だけ登場する。母が父のところを訪れたのかどうかわからないが、父が息子イグナートに「父さんと一緒に暮らさないか?」と声をかけるが、息子は「いやだよ」と拒否する。母はうつむく・・・そのときにジネヴラ・デ・ベンチが出てくるのだった。
彼女は目をひらき、こちらをみている。そのあいだ、3秒ほどであったろうか。元のシーンに戻り、妻ナタリアは母マリアの写真をみて「やっぱり似ているのね」という。
ジネヴラ・デ・ベンチはその間しか出てこない。これをどう考えたらいいのか。
まず、タルコフスキーは、この絵についてこう語っている。
「レオナルドによって創りだされたイメージは、いつもふたつの点でわれわれを感動させる。そのひとつは、対象を外部から、外側から、傍らから熟視するときの、芸術家の驚くべき能力である。これは例えばバッハやトルストイのような芸術家に固有な、世界を上から見るまなざしである。
そしてもうひとつは、イメージが同時に二重の相矛盾する意味で知覚されているということである。
(・・・)
真の芸術的イメージは、それを見るものに、必ず、複雑で、矛盾した、そして時として相互に排除しあう感情を同時に体験させてくれるのである。」『映像のポエジア』
とくに「対象を外部から、外側から、傍らから熟視する」という点を考えると、「鏡」ではもうひとつ、レオナルドが登場するところに着目することができると思う。それは弟子フランチェスコ・メルツィが描いた横顔の肖像だ。
本を盗んで来て、それを開いているときにその絵がでてくる。このレオナルドは顔を横に向けているからなのか、こちらをみていない。
しかし、ジネヴラ・デ・ベンチはこちらをみている。何をみているのか。夫婦と子をみているのか、それともこの映画をみているわたしたちを逆に見返しているのか。すなわち、視線をあわせない冷えきった夫婦関係を強調しているともいえるし、スクリーンに注がれるわたしたちの眼差しとスクリーンから発せられるジネヴラの眼差しが交錯しているともいえる。
それと、ジネヴラ・デ・ベンチといえば身元が判明している数少ないレオナルドの作品。これだけは確か、というのがある。あのモナ=リザですら確定していないのだからね、これは重要なはず。誰であるのかが明確。ジネヴラが出てきて、ナタリアが、父の母マリア(これは同一人物の女優)の写真をみる。同じ女優だから自分の写真をみているように見えてしまう。違うのに同じという奇妙な二重性が生まれている。しかし、ジネヴラと同じ女性はいない、ジネヴラはジネヴラだ。なのに、ナタリアとマリアは同化したもののように「鏡」のなかにいる。
たしかに、ナタリアは机におかれていて、額に入っているマリアの写真をみて、「やっぱり似ているのね」という。
ナタリアとマリアというふたりの女、そしてふたりの女に関わった父とわたしというふたりの男。この複雑な関係をより見せるためにジネヴラが使われているのだろう。
全体としては「鏡」における自然と人をみておきたい。木の柵に座ったとき重みで医者とマリアが倒れたあと、医師は地面から外を見回して「ほら、ごらんなさい」と自然をみるようマリアに促している。ジネヴラの絵は、あのカールした髪、白い肌と背後にある刺々しく暗い色の植物の対比や遠景が語られている絵でもある。そうなんだよね。この絵はジネヴラだけ見るべきではない。
それにしても、医師とマリア、それに水が滴るシーン、紅茶のカップがおかれていたあとにある水蒸気が蒸発していくところ。記憶は重さをもつのかもっていないのか。そんなことを思わせる映像だった。忘却する、というのはこのことなのだろう。ゆっくりとわたしはこの映画を忘れてゆく・・・。
2012年 8月 18日(土) 00時47分45秒
壬辰の年(閏年) 葉月 十八日 辛亥の日
子の刻 四つ
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