レーピン展にむけて

いま、Bunkamuraで開催されている、「国立トレチャコフ美術館所蔵 レーピン展」。わたしはこの画家についての予備知識がほとんどなく、背景がよくわからないので、まず大月源二『レーピン』(人民文庫 青木書店 1953年)を読みました。

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なお、これはネットで全文公開されています。このうち、レーピンが生きたロシアについて書かれた「時代と環境」のところを読みました。この本は以下の3章で構成されています。

戦闘的なブルジョア美術
移動派 ― 人民の中へ
反動の時代

著者の大月源二本人も日本プロレタリア芸術家連盟に加わり、北海道で活躍した画家であり、その傍らでレーピンについて資料を収集し、この本を書いたらしい。あとがきにこう書かれています。

「かつて日本のプロレタリア美術運動はレーピンや、スーリコフなど、ロシヤ移動派絵画の貴重な遺産には殆ど関心を払わずに過ぎてしまった。運動が壊滅した後の長い反動と戦争の間に、私はレーピンを発見し、その現実主義の力に打たれ、資料を集め、貧しいロシヤ語の力に鞭打って研究を続け、戦後もその努力を続けた。」

大月は仕事を通じてレーピンを知り、もっと知りたいと思ったわけです。

まず、背景は1840年からスタートします。レーピンは1844年生まれですが、このときはニコライ1世(在位1825〜1855)の時代です。これは19世紀のロシアでは秘密警察が暗躍した、もっとも暗い時代であると世界史のなかで解説されています。とりわけ、1825年にデカブリストの乱が鎮圧されますが、専制に対する反乱として人々のなかに刻印されるわけです。1840年代はニコライ1世はこれを取り締まろうとしますが、なかなかうまくいかない時代でした。
そして、1850年代になると、画家アレクセイ・ヴェネツィアーノフが活躍する時代であるといいます。大月が着目するのは、チェルヌィシェフスキイーの論文「芸術の現実にたいする美学的関係」(1853)です。大月によれば、「芸術の内容は、ただたんに美なるものだけでありえない。生活における一般関心のあるもの ― これが芸術の内容だ。」といい、生活と芸術の関係性を示しているところに特徴があります。とくにこれは、レーピンを含む「移動派」の思想的な支えになりました。

この論文が書かれた1853年はロシアにとって転回点となる年でした。それは、ロシアは1853年から3年間にわたって、オスマン・トルコ、イギリス、フランスとクリミア戦争(1853〜56)をし、敗北したことです。皇帝もアレクサンドル2世(在位1855〜81)にかわります。この敗北の原因はロシアの近代化が遅れていると判断した貴族たちがおり、1861年、農奴解放令が公布されるという歴史がありました。
そんななか、大月は「五十-六〇年代のロシヤ絵画において、風俗画―わけても思想的生活的風俗画の量的比重が相対的に増大している。」とし、チェルヌィシェフスキイーの論文がロシア絵画に影響を及ぼしたという姿勢を示します。さらに「六〇年代のロシヤ美術は、あきらかに新しい時期、ブルジョア美術の時期に入ったのだ。新しいブルジョア美術は、時として貴族的な古いイデオロギーと混合されながらも、根本的にこれと対立した。」といいます。。代表的なものとして以下が取りあげられています。

1858年:ヴェ・ゲ・ペローフの「地方警察署長の訊問」、「下層の息子」
1860年:エヌ・ペ・ペトローフの「三人の百姓」、ヴェ・イ・ヤーコビの「乞食の復活祭」
1861年:ペローフの「村の説教」、「復活祭の十字架行進」、ヤーコビの「囚人の到着」など

タイトルをみてわかるように、この頃の絵画において主人公となるのは農民であるといえるでしょう。そして、1870年になると「移動美術展覧会組合」が結成されます。大月は以下のように説明しています。

「「移動派」(ペレドゥヴィジュニキ)は毎年ロシヤの各都市を巡回し、若い美術家の作品を、新しい需要者の広汎な層に近づき易いものとした。ロシヤで初めての有料入場制がとられた。」

巡回するから、移動派というのですが、絵画を様々な地方に展示することによって美術に対する地方の需要が強まり、移動派は収入が増加していくことになります。とりわけ、移動派絵画の複製は売れました。このような近代化が進むロシアへの反応として、保守的な地主貴族たち(小ブルジョワジー)やば解放令の内容に不満を抱く農民たちがいました。彼らの反抗はやがて、ゲルツェンを中心とした「ナロードニキ」という活動として、アレクサンドル2世の暗殺に繋がる事となります。ナロードニキとは、ロシア語のナロードnarod(人民)に由来し、人民主義者と訳され、専制と農奴制を批判するのが特徴にあります。
また、この1870年代は「最初の蓄積の時期」と言われる段階の、資本主義的諸関係の嵐の様な発達の時期であり、泡沫会社の設立と貧困の増大がありました。このとき、絵画には一般に民衆の生活的な情景が少くなってゆき、生活と現実の演劇化の要求があらわれ、構図と素描と色彩に、前時代よりも高い技術上の発達があらわれました。

1880年代にはいってすぐ、1881年3月1日アレクサンドル2世が「人民の意志」によって暗殺されてしまいます。「人民の意志」派は弾圧で壊滅してしまいますが、この瞬間、「ブルジョアジーは封建制とその政治的独裁との協調に決定的に転じた。政府の側からは工業資本に対し、関税の引上げ、金本位制の採用、大シベリア鉄道の建設によって相応した保護政策がとられ、このためロシヤ資本主義は著しい発達を途げた。」といいます。
しかし、このことにより、「この時代のブルジョアジーイデオロギーと芸術にたいする要求は、反動と自分の達せられた富による満足の側へと、鋭く決定的に変わった」といいます。
このときの移動派は、「風俗画は依然として重要な地位にあるけれど、それはもう社会現象への批判の目的に答えず、外面的記録的な性質を帯びてゆく。「半主題的」な風景画が流行し、更に「没主題的」な静物画の流行へと移る。歴史画の役割は決定的なものとなってゆく。宗教的及物語的主題の作品が現れることもこの時代の移動派の一つの特徴」とされます。
つまり、ナロードニキとブルジョワ(貴族たち)の力関係のなかに移動派の芸術の性質が変容してきたということができます。

ここまでをまとめると、「1860年代が広汎な民主主義運動と、ブルジョアジーの階級的形成の時代であり、1880年代が本当の反動であるなら、1870年代はそれへの過渡、- 漸いに改革前の反動的内容が復活し、反動との和解へブルジョアジーが近付く時代に他ならない。」ということになります。

イリヤ・レーピンはこのような急激な近代化をめざすロシアのなかで半生をおくることになるのです。


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