レーピン展レヴュー

「国立トレチャコフ美術館所蔵 レーピン展」を鑑賞した。ここ最近は一人で展覧会をみてばかりだったのだが、イリヤ・レーピン(1844-1930)を見たいという人がいらっしゃったので、合間をぬって一緒にみる。その方も美術史がご専門なのでいろいろとご教示頂きながら。相手は手話ができないので、筆談でやりとりをしたけれども絵の前で筆談をするのはやっぱり良い。
手話にかぎらず、言葉を交わしたいという気持ちがあらゆる言語の基盤だと考えたい。

さて、トレチャコフ美術館のレーピンに関する紹介はこちらを。
レーピンの簡単な年譜はここを。
学芸員による解説はこちらをどうぞ。

さて、レーピン展のレビューをしておきたい。
この展覧会は、5つのパートに分かれていて、以下のようになっている。

Ⅰ 美術アカデミーと《ヴォルガの船曳き》
Ⅱ パリ留学:西欧美術との出会い
Ⅲ 故郷チュグーエフとモスクワ
Ⅳ 「移動派」の旗手として:サンクト・ペテルブルク
Ⅴ 次世代の導き手として:美術アカデミーのレーピン

年代順にはなっておらず、レーピンをテーマ別に再構成したような内容になっている。この手法が主流だとおもうけれど。
出品されているのはすべてトレチャコフ美術館蔵のレーピンの絵画で、関連する他の画家は1枚も出品されていない。レーピンの回顧展といっても差し支えないが、トレチャコフ美術館にあるもので占められていて、他の美術館の代表作は来ていないので大々的というわけでもない。それでも、これからレーピンをみたいなとも思うし、ロシア旅行したときにいい座標になる。それよりも何より19世紀のロシアについて考えるときにとてもよい企画だ。

展示室はワインレッドを貴重に構成されたインテリア。目録もワインレッドにみえる。
さて、展示室に入るとレーピンの自画像が出迎えてくれる。

Repin 1

いい意味で、手をいれるべきところ(顔)と手をぬくべきところ(胴体の下部)があって、仕事の手さばきのよさを感じるところ。あと、水玉のみえるシャツがおしゃれだよね。

ところでのこの自画像をみると、少し前にあった吉川霊華展を思い出した。というのも、吉川の自画像も含めて、写真なども一切出ておらず、表情がわからない画家だったからだ。画家の表情を出す、出さないの違いというところで吉川とレーピンの展覧会は方法論がまったく異なっている。吉川の場合、写真がまったくないとは思えないのだけれど、何か理由があったのだろうか。
このように展覧会の最初に画家の自画像を出すことでこのようなイメージだと伝えているところが良かった。吉川の場合、回顧展なのに画家本人のイメージがまったく出てこない展覧会は珍しいなとおもう(展示室に入るといきなり代表作の大きな龍の掛軸だった)。

Ⅰ 美術アカデミーと《ヴォルガの船曳き》には、レーピンの代表作である《ヴォルガの船曳き》の習作と準備素描が中心に展示されている。

Repin 2

《浅瀬を渡る船曵き》1872年

大月源二『レーピン』(人民文庫 青木書店 1953年)によれば、1868年、レーピンが同僚のサヴィツキーとネヴァ河を訪ねた時がきっかけだったらしい。

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なお、これはネットで全文公開されています。
ここには、綺麗な別荘があり、美しく着飾った人たちが集まっていたのをレーピンがみていたとき、船が動いていて、曵いてくる人たちを認めたレーピンはサヴィツキーにこう叫んだという。

「紳士達のあんなにも清潔な香しい花園との対照がここにある! -信じがたい絵画だ!-と私はサヴィツキーに叫んだ。-誰も信じないだろう・・・ だが何という恐ろしいことだ・・・人間が家畜の替りをさせられている。

なんと強烈な一言だろう! 違うアングルから描いた《浅瀬を渡る船曵き》の目の前にきたとき、「人間が家畜の替りをさせられている・・・」とわたしもつぶやいた。ただ、曵くだけの人。感情もなにもあったものではない。彼らの顔は色だけでなく表情も暗い・・・。このような時代にレーピンは怒りを感じたのか。

Th repin 3

《ヴォルガの船曳き》(1870-73, ロシア国立美術館)(展示されていない)

オリジナルが来日していたら、どんなにかいい機会であっただろうか。大きさが131.5×281.0cmもあるそうで、展示されている《浅瀬を渡る船曵き》よりもはるかに大きいはずだ。

この作品には中心に少年らしい、肌色の白い少年がいる。レーピンはこう表現しているらしい。

「かれなどと一緒に、親方から全てを任された少年が居た…率直に認めねばならないが、この舟曳人夫達と親方達との契約の状況や、その社会的体制の問題は、少しも私の興味をひかなかった…だが…実にこの少年なのだ、私がそれと並んで足をそろえていったのは…額に突進する眉に迫る眼の何という深さ。そして額は-大きく賢く、知的な顔だ。これは鈍物ではない…(それがカニンだった-未来の「舟曳人夫」の中央の人物)。」(大月『レーピン』より)

アングルも違うけれども、レーピンが強調しているカニンなる少年は《浅瀬を渡る船曵き》には登場していないことも大きな違いになっている(他にも兵士のことが取りあげられているけれど、詳しくは大月の著書を参照されたい)。

Ⅱ パリ留学:西欧美術との出会い
レーピンが1873年にパリに住んだときの絵をいくつか。まさにこのとき、印象派が生まれようとしていたときだった。

レーピンはパリの現実ばかりでなく、フランスの新しい美術に惹きつけられて行った。かれは初めに否定した印象主義者の絵画的手法の承認へ次第に傾きはじめた。(・・・)1874年の4月15日、第一回印象主義者独立展覧会がパリで開かれ(・・・)レーピンがこの展覧会に大きな関心を持ったことは言う迄もない。この年から数年たってレーピンはインプレッショニストの「直接的な印象の新鮮さ」がもたらした利益を、感謝の念をこめて思い出しながら、「インプレッション」即ち印象の新鮮さと力無しには、真の芸術作品は有り得ない。かれなどの画布はその新鮮さで美術を活気付けた。」と確言している。(大月『レーピン』より)

定型的な色彩表現に囚われない印象派の表現として、この絵が紹介されていた。
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《レーピン夫人と子供たち「あぜ道にて」》 1879年

なるほど、この雲の表現、光、とろけている草花をみれば、印象派の影響を受けていることを認めるのは難しくない。この絵は2009年にブンカムラで開催された国立トレチャコフ美術館展「忘れえぬロシア-リアリズムから印象主義へ」でも出品されたことがあるので、3年ぶりということになるのだろう。

《パリの新聞売り》という絵があるけれども、新聞はどこにもない。タイトルの意味が不明瞭だ。しかし、何かを売ろうとしているのか、声を上げている男のまわりにいる人々は貧富の差が様々で、さきほどの《ヴォルガの船曳き》のように貧しい人しかみえないのと違っていた。

Ⅲ 故郷チュグーエフとモスクワ
Repin Party

《夕べの宴》(1881年)

レーピンは1876年7月に帰国している。そのあとに描かれた、この《夕べの宴》をみると、すぐ17世紀のオランダ絵画のフランス・ハルスのような風俗画で名をなした人たちを思わせる。とくに一番右にいる人で、笑顔が共通している。口を大きく横に開いた表情(画像では途中で切れてしまっている)。

たしかに、レーピンもハルスのことを書いている。

「ハルレムとハーグではフランツ・ハルスがレーピンに大きな印象を与えた。かれはポレーノフに書いた。「オランダの美術では誰よりもフランツ・ハルスが私を驚かした、ハルレムやその他かれの作品がある場所で。非色彩性と所々粗略さがあるにも係らず、自由な生き生きした美術家だ…それは生活と表現のこのような魅力だ!」又トレチャコフに書いた。「かれ(フランツ・ハルス)の才能ある写生に出会う至る所で、私は眼を引き離すことが出来なかった。どんなに生活があることか!」(大月『レーピン』より)

夜、コサック・ダンスをしているところを笑顔で鑑賞するひとたち、演奏するひとたち。吊されている蝋燭がちらちら揺れていたのだろう。「どんなに生活があることか、か・・・。」先日に読んでいた『レーピン』を思い出すと、印象派にせよ、いろんな画家を観察していることがわかるけれど、この絵画はその歴史をがっしりとうけとめている。
IIIに展示されている、《トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック》(習作、1880)と見比べてもおもしろいと思う。コサック・ダンスをみて笑って楽しんでいる人たちとスルタンへ手紙を書きながらあざけ笑うコサックたち、というコサックの2つのイメージがみえるからだ。
スルタンはイスラム王朝の君主そのものを指している)

ほか、《護送中》という絵があった。
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誰かが逮捕された人物が兵士に囲まれて馬車で護送しているところを描いたものだが、風景をみると電信柱が建っていて、人の動きと電気の動きが同じ空間を行き来しているのがわかる。近代ならではの表現だとおもう。

《クールスク県の十字架行進》はトレチャコフ美術館の所蔵だが、来日しなかった。

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《クールスク県の十字架行進》(1880-83)(展示されていない)

この作品の習作をみると、静かに行進しているのだが、これは熱狂的な要素が含まれていて、スピード感がある。左側に松葉杖をついている男がいるが、盲のようにもみえるが、晴眼者(目がみえる人)のようだ。彼一人だけの肖像画が展示されている。とくにこのブースは肖像画が多く、高位の軍人から庶民まで、とくに画法を変えることはなく等しい目つきで描いている。

Ⅳ 「移動派」の旗手として:サンクト・ペテルブルク
このブースはとりわけ素晴らしい。脂の乗り切った時期だとおもう。
とくにこの絵!
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《思いがけなく》(1884-1888)

まさにその人が部屋に入って来た瞬間、まわりの人がその姿を認識して、この人が誰なのかを理解しようとする一歩手前の瞬間にみえる。カメラでいう、「決定的瞬間」を絵画で表現するとこのようになるのではないかと思われるようなものがあって、しばしこの絵の前に立ち止まってしまった。
そうなんだよね。あらゆる視線が男に集中している。その視線は喜びをもたせるような男の子の視線、いくぶんか警戒しているような女の子の視線、妻か母かわからないが黒い服の女性(ナロードニキか?)の目そのものが見えない視線。ピアノの前にいる女性の驚きの視線、ドアをあける召使いらしい女性の監視するような視線、その背後にいる誰かの不安げな視線。そして、男は黒い服の女性を緊張した顔つきでみつめている。
このような、それぞれの性格を帯びた視線が交錯するような絵をわたしはあまり知らない。

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《思いがけなく》(1884-1888) 部分

壁にかけられているキリストは、トレチャコフに収蔵されている、シャルル・デ・ステューベン(Charles de Steuben)なる画家の《ゴルゴダ》を銅版画にしたものだということがカタログに書かれてあった。この画像をちょっと探してみたけれど、みつからない。カタログには掲載されているのでそちらを。ステューベンはフランスの画家でクールベのもとにいたようだ、だからレーピンも彼を知っていたのだろうか。

《思いがけなく》はレーピンの代表作で、来日しているもののなかでは有名なほうだとおもうが、こんなパロディもある。

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帰ってきたであろう男性が「スター・ウォーズ」のダース・ベイダーにすり替えわっているパロディ画。
なんでベイダーが民家にくるんだよ・・・。男の子の笑顔が「ダース・ベイダーだ!」になってしまっている。

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《1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン》(習作、1883、1889)

オリジナルではないが、雰囲気はつかめるとおもう。エイゼンシュタインが『イワン雷帝』をとったことがある。

この映画の続きをみているかのような気もする。というのも、エイゼンシュタインはこの映画を第一、第二部まで作り上げたが、最後となる第三部を完成することなく亡くなったからだ。
3部はラストだから、イワンが息子を殺してしまうシーンが撮影される予定だったのではないかと思う。そんなふうに映画『イワン雷帝』の延長線をみたような気がする。この映画は身ぶりや影の使い方、極端に遠近を強調したようなカメラワークがおもしろい。第一部の冒頭にある、ロシア正教会に人々が集まっているシーンがすごくいい。

この『イワン雷帝』の第一部はここで、第二部はここでみることができる。

完成作は、年表によると1913年1月に顔を切り裂かれたことがあるという。ヴァンダリズム。この絵はサンペテルブルクの移動美術展に展示され、モスクワではトレチャコフが皇帝の意に反して展示したという。そのためか、1885年4月1日の勅令で公開禁止令がくだっている。

Ⅴ 次世代の導き手として:美術アカデミーのレーピン

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《ゴーゴリの「自殺」》(1909)

大月はレーピンを高く評価して、ゴーゴリを引き合いにしているところがある。それは

「ゴーゴリの「死せる魂」を想いおこさせる。しかもレーピンの生活にたいする深い情熱は、物そのものの冷たい客観性を人間のための物、生活のための自然に転化させていることに注意されねばならない。」(大月『レーピン』より)

まさにその「死せる魂」の第二部を焼却するよう、ある司祭に言われたのをゴーゴリは少しだけ燃やすつもりだったが全部燃やしてしまい、10日後に亡くなるというが、そんな様子だという。ゴーゴリの顔つき、こんな顔をする人だったのだろうか。レーピンの想像なのだろうか。
大月がレーピンについてここまで言っていることをわたしは指し示すだけで十分とはおもうが、蛇足を付け加えるならば、レーピンは、貧富の差、生活の違いを同時に、あるいはクローズアップ的に絵画に表現することで、その生活の美しさやひとの美しさを感じ取ってほしかったのだと思う。前にポストしたように、ブルジョワとナロードニキというロシアを長らく支配していた階級と反発する人たちによる抗いのなかで、ロシアが進むべき道を画家として模索しつづけた画家だったのではないか。
この展覧会ではあまりナロードニキのことが解説されていないし、クリミア戦争のことも。すっきりみせるためにあえて政治的な要素を省いたのだろう。

日本とロシアは微妙な関係がいまも続いている。そう、とくに北方領土問題だ。レーピンならこの事態をみてなんというであろうか?

気になるところがあって、1916年に精神神経症研究所のなかで、人文科学と美術研究所の計画立案に関わったという。精神神経症研究所のなかに美術研究所をつくるというのがおもしろいが、これについて何か本が出ているだろうか?

レーピン展のあとは、カツ丼を食べようと思ったがお店が閉まっていたので、「葱や平吉」という店でランチ。前から暖簾が気になりつつも入ったことのない店だったが、内部は民家を改修している。800−900円台のランチでごはん、みそ汁おかわり自由。腹一杯食べられる。唐揚げがうまそうだった。

2012年 9月 03日(月) 15時22分38秒
壬辰の年(閏年) 長月 三日 丁卯の日
申の刻 一つ


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コメント

“レーピン展レヴュー” への2件のフィードバック

  1. 葛生久美恵のアバター
    葛生久美恵

    なんだか、素晴らしい…素晴らしかった…という釘付になり、歴史の中にお話といっしょに想像を巡らせ引き付けられ鑑賞させていただきました。ありがとうございました。

  2. 葛生久美恵のアバター
    葛生久美恵

    なんだか、素晴らしい…素晴らしかった…という釘付になり、歴史の中にお話といっしょに想像を巡らせ引き付けられ鑑賞させていただきました。ありがとうございました。

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