服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(2012)

Posted on 2013/02/06

服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社、2012)を読了しました。

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史料に史料をたたみかけるような史料批判は煩雑になりやすいところですが、「ここにはこう書いてあり、これにはそうあり、このように読みとれる・・・」と平易であろうと務めようとする気持ちが感じられました。
目次はこちらをみてください。以下、気になったところをメモとしてまとめておきます。

1、犬追物と河原ノ者
犬追物とは武士が犬を馬上から射るという行事ですが、これについての研究は有職故実や美術史、地理学史、差別問題の視点からの研究が挙げられますが、これらは別個の研究として成り立っていることが指摘されます。たとえば「美術史家は差別問題には関心が少なかった」といいます。つまり、これらの研究における視点が相互に交差することが少なかったのではないかといいます。

服部は犬追物として重視される、狩野山楽が描いた「犬追物屏風」(常盤山文庫蔵)について言及します(注:服部は「常磐山文庫」としてますが、「常盤山文庫」の間違いではないかとおもう)。
『本朝画史』では狩野山楽が佐々木義治(玄雄)から犬追物の詳細をきいていたのではないかといいます。これをみると、河原ノ者が竹杖、犬を持って待機しているところや武士の直後を追いかけているところが描かれているとします。「河原ノ者」とは、いわゆる「エタ」のことであるが、河原ノ者が犬追物に関わっていたことはあまり知られていないといいます。
ここから河原ノ者が犬追物の準備・実施のすべてに関わっていることが古文書より明らかにされます。たとえば、犬はどこからどうやって何匹集めるのか・・・そして終了したあと、怪我した犬はどうしたのか(これは食べられるのだが)ということが示されています。
今年、京都国立博物館で狩野山楽の展覧会があるので、山楽と犬追物というテーマでもこの本について知っておくとよいでしょう(しかし、この屏風は出品されないとのことです) 。

2、身体障害者について
石井進『中世のかたち』(中央公論新社、2002)によれば、針売りは差別の対象になったと書いてあるといいます。持ち運びが容易で値段も安く、街頭・訪問販売が可能ということで、下層のひとびとが生きていくにあたり、手軽にできる職業であるという。ここには差別階級と身体障害についてどう描かれているかというところとして、服部が九州で聞いた話としてこんなくだりを述べています。

「身体障がい者というか、耳が悪かったり、目の見えんとか。旅の人、手を引いてくる。観音様やお宮に泊まったりして、季節になったら毎年(同じ時期に)くる。だいたい同じ人だった。志摩郡が縄張りでしょうねぇ。歌を歌ったり、針売ったり。縫い針、もってきんなっとる。(後略)」 (563−564頁)

耳が悪い ー おそらく聾であったろう人が針を売って生きていたらしいことがうかがえます。惜しむらくは「九州」とは具体的にどこをいうのか。志摩郡とは、福岡県の西端にあるところなので、九州北部の話かもしれない。

3、秀吉は差別階級の出である
ここから二部に入ります。先述の石井進『中世のかたち』は、秀吉が差別される階級 — 賤(あやし)の環境にあったということを初めて言及したアカデミックな本であるといいます。ここでは針売りだけでなく、猿真似といった大道芸もしながら生活をしていた秀吉の像を浮かび上がらせています。

4、秀吉の右手は6本指である
フロイス『日本史』(16章317頁)には秀吉の指が6本であると書かれていますが、訳者はその信憑性を疑っているといいます。しかし、前田利家の伝記「国祖遺言」(金沢市立図書館蔵、加越能文庫)には秀吉の「右手」が6本指であることが記述されていることから、服部は秀吉の右手が6本指であるのは間違いないのではないかと考えます。

5、秀頼は秀吉の息子ではない
たぶんこのパートが読者の関心をひいているところではないかとおもいます。Amazonの紹介文にもそのように書いてありますし、本の帯にも書いてあります。しかし、それよりも非人、河原ノ者の存在についての記述があったからこそ、この秀吉の記述も生きており、この二部の構成そのものがこの本の良さを示していると考えます。
さて、秀吉には側室が16人おり、さらにそれ以上の女性と性交渉があったにも関わらず、一人の子供を授かったことがないことや秀吉のもとを離れた側室が子を授かっているケースから、秀吉は男性として「欠陥」があったのではないかといいます。フロイスも同様のことを記述しています(『日本史』2−195頁)。また、秀吉は実子が授からないことを前提に行動していると服部は考えています(606頁)。

そこで、服部が注目するのは以下のように要約されるでしょう。

「拾(秀頼)誕生の266日前、つまり受胎予想日の文禄元年(1592)11月4日、秀吉と茶々(淀)は一緒にいたのか。」

秀吉は10月30日に博多に到着し、11月5日には肥前名護屋にて茶会をしているといいます。だから、受胎したのならば、茶々は秀吉と一緒にいなければならないと服部は考えます。そこで、服部は茶々も同行していたという文献は誤りであると史料を相互参照しながら述べます(632-636頁)。
つまり、二人は離れているわけで、性交渉をもって懐妊することは不可能であるといいます。

さて、文禄2年5月22日に秀吉が北政所に宛てた書簡には、茶々が懐妊したことが記述されていますが、秀吉が懐妊を承知したという文面からして、このときにはじめて知ったということがわかるといいます。日付をみると、すでに7ヶ月が経過していることから服部は「遅すぎないだろうか」と疑問を呈します(637-639頁)

では、秀頼の父は誰かというと、『明良洪範』(正徳頃までの幕臣らの事績記録)と『萩藩閥閲録』(1598年10月朔日の書状、3・169頁)より、大野治長であるという説が多数派であるといいますが、服部はこれを否定します(607頁)。そこで呈示されるのは天野信景『塩尻』(巻26)で、ここでは大野治長の子と疑われるが、実際は卜筮(ぼくぜい)法師であるといいます。

そして8月3日、茶々は「拾」と名付けられる子供を産みます。秀頼です。
秀吉は25日に大坂に戻るのですが、このときに係る日数を考えると、母が危篤になったケースなど他の例と比較すると至急戻っていると服部は考えません。10月19日になると、 唱門師(声聞師・陰陽師)が城中から追放され、翌日になると淀殿付きの女房たちが留守中の「曲事」のために処刑されます。

このときに示される書状として秀吉が淀殿にあてた書簡があります。これは育児への指示があり、好々爺である秀吉のイメージが浮上するとされてきました。しかし、服部はそう考えません。
まず、25日とある日付を「伏見より」と秀吉のいる場所より推定すると、9月25日か10月25日であるとします。また、この書状には「糾明」「業腹」とあることから、秀吉の怒りがこめられていると服部は考えます。このときに実の父も処刑されたのではないか、とします(636-649頁)。また、11月4日には側室だった女性が亭主とともにむごたらしく処刑されます。このことによって、大坂城における風紀をひきしめたとします。

このくだりは新しい史料を使っている訳ではありませんが、組み合わせ直し、解釈し直すことで新たな秀吉のイメージを作り出すことに成功しています。そして、服部は「淀殿にとって秀吉は父(浅井長政)、母、兄を殺した男であり、その意識は消えることはなかった」とし、母になることによって奪い返したといいます。

また、補論として秀吉実子説がある朝覚、石松丸、小早川秀秋についても史料をもとに否定しています。

個別的な感想として、注釈に近代デジタルライブラリーなどデジタルアーカイヴスからの引用する場合はコマ数も記述しており、丁寧なお仕事ぶりがうかがえました。

2013年 2月 06日(水) 19時35分36秒
癸巳の年 如月 六日 癸卯の日
戌の刻 二つ

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