明治の『京都日報』にあった連載小説より、金閣での捕り物の挿絵があった。
これは金閣をバックにしていて、主人公が屋根から飛び降りていると考えられるところ。ちなみに金閣は1950年に焼失し、1955年に再建しているのでこのイラストは焼失前ということになる。
まず、今の金閣の写真。
挿絵にある金閣の表現をみると、3層の楼閣建築であることは現在と同じで、下の層に漱清(そうせい)という池に突き出ている部分がみえる。たしかに金閣にはこれが設えてある。でも、現在、このアングルから見ることはできない。というのはGoogle mapによる衛星写真をみるとこのようになるからだ。
金閣は鏡湖池に囲まれていて、北からアプローチすることになっていることがわかるだろう。金閣に近い位置では北か東にある通り道になっていて、現在、漱清をみるには、北からみるしかない。いまは金閣の東、南のアングル — 池のまわりには立ち入ることができないから。つまり、挿絵のようなアングルは現在見ることができない。
そして、鳳凰の向きは漱清の方向、西になっていることがわかる。でも、復元された金閣では南を向いている。これは復元前と違うんだよね。
たとえば、明治に撮影された写真をみると、おぼろげだけれど、鳳凰は西を向いていることがわかる。なぜ復元後に鳳凰が西から南向きになったのかは知らない。
この写真のアングルは挿絵に近い。ちなみにウィキペディアにはもっと近いアングルの写真がある。
挿絵を描いたひとが何を参考にしたかはわからないが、アングルからして、立ち入りが難しいところなので、写真を活用したか、あるいは実際に立ち入ることができ、その方向から挿絵をデッサンしたのか。いずれにせよ、挿絵にある金閣の表現は忠実だといえるだろう。いまのわたしたちには知り得ないイメージが挿絵のなかにあった。
人の描写は強調のためか、大きめにされているのもおもしろいし、漱清も大きく描かれているように見受けられる。今度はこの連載小説そのものを細かくチェックしてみようとおもう。なぜ金閣だったのか、いろんな考えが湧きでてくる。
2013年 2月 07日(木) 00時07分44秒
癸巳の年 如月 七日 甲辰の日
子の刻 三つ
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