光と資料が混じるとき

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思い出すこと。

図書館で資料として明治の新聞を読んでいたら、不意に光が入ってきた。そのとき、新聞に夕陽がかかる。

明治の新聞に対しては、資料という視点をもっている。情報としての資料でしかない。それをみようとすると、所蔵館からはマイクロリールで見るように指定されることがほとんどである。というのも、薄い紙でとても破けやすく保存状態が良くないことが多いから。そうだよな、と思いながらマイクロリールの電球の光で新聞を読むことがほとんどである。原紙=オリジナルを見る機会といえば、大抵は美術館や博物館で資料として出品されるときであるが、ガラス張りのケースに囲まれていて触ることは叶わない。

マイクロリールが無い場合は例外的に、原紙で見られる場合もある。しかし、指定された閲覧室は窓ガラスは磨りガラスになっていて光が弱められているうえ、カーテンが閉められていることがほとんどである。紫外線が紙に良くないから。それでも窓の横の席で原紙をみられることもある。スタッフの方からこちらにどうぞ、と指定された席は窓の横であるが、カーテンを閉めてしまう。何よりも、撮影禁止になっている。自由に撮影ができるわけではない。

だから、外の光で、新聞を読むというごくあたりまえの行為が、明治の資料となるとできない。

でも、たまたま、それができるときがあった。

指定された席は窓の手前、しかもカーテンは開けられたまま。自由に撮影をしてもよいという。そこでわたしは新聞を開いて見ていた。何時間もかけて、ゆっくりと1枚ずつ、1枚ずつ、破けないように・・・。このあたりに、何かヒントがあるのではないか、この時期は何々があったときだな・・・と思い出しながら、目に留まった記事、論文に使えると判断した記事はノートに日付と内容を書き込んでいく。

そのとき、夕陽の光がサッと新聞にかかった。

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埋没する文字と浮上する文字。

活版印刷のメカニズムを理解し、パイオニアとなる人たちの人生を知っていても、あるいは幕末から続く新聞史を知っていても、古い新聞の質感や洋紙のことを知っていても、どこかわからないものがあった。

夕陽にあたった洋紙には、薄い紙に埋まる黒い文字と、裏側からくっきりと強い圧力をかけられた文字が浮かんでいるのがみえた。ああ、これだったのか・・・。新聞と外の光が混じることによって、明治の資料が「新聞」になっているのがみえた。わたしは資料に触れているのではなく、新聞に触れていた。

まもなく、スタッフがやってきてブラインドを閉めた。潮が引くように、さあっと新聞から光が消えていく。それは資料になっていた。


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